くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

AIと人間による仕事強奪戦、将来の職業選択は雇用か自営か?

いちいちゴシップ記事に反応しても仕方ないけど、下の記事をダシにして書いてみると、昨日もAIとの将棋名人戦においてAIに人間が負けたニュースが流れて、AIの正確無比なデータ処理能力にお墨付きをつけることになった。

 

nikkan-spa.jp

AIに仕事を奪われて大量失業か。意外な救済策が、本気で検討されている | 日刊SPA!

 

参照記事でも、惜しまれながら今年この世を去った天才スティーブン・ホーキング氏の言葉を引用し、AI進化による就業機器を警告しているが、一方でそれに反論する識者も少なくないことも指摘しておきたい。

 

さて、氏は職を失うと予測しておられるが、それを受けて英ガーディアン紙がその尻馬にのって工場の自動化の効果に触れているが、工場の自動化とAIの導入では本来別々に考えなければならないものを、妙な関連付けで誤解を招く書き方をしているように思う。

工場の自動化は、AIが登場するはるか以前から、つまり産業革命がおこったときから始まっていたことで、その自動化にAIを導入して得られるメリットは、自動化の進化による効率化よりはむしろ人権費の削減によるコストカットの方が高いはず。

 

こうした工場経営者に関わらず、AIを引き合いに出す企業経営者側の本当の目的は、経費で最も大きい比率を占める“人件費”の削減を正当化するための詭弁なのだと思う。

経営者にとって雇用者のリストラ課題は、かなり前から目の上のたんこぶとして悩まし続けてきたが、世界でもさらに日本では「労働組合」の存在が、この問題の表面化でシャレにならない抵抗を余儀なくされ、企業体質の安定化・スマート化を遅らせてきたのだから。

 

ここに来てAIという仮想労働者の登場は、渡りに船だった。

 

労働者として、人間よりAIは優れていることをあらゆるシチュエーションで証明していくことで、

AI=リストラの正統な言い訳

という等式を正当化しようとしているのではないか?

と疑いたくなるのだが、さてろうだろうか?

 

さてその上で本題に入ると、AIを見据えて我々人間様の有るべき仕事とはどのような選択肢ができるだろうか?

 

まず雇用者として一般では、当初ブルーカラー職がAIに取って代わられると囁かれたが、これは先に述べたようにもともと企業が目指したものなので当然として、新たにホワイトカラー職も、職種によっては随時侵食を受けていくと考えられるので、今後後者の方々も油断してはならない。

特に、公務員・国家資格的な今まで安定してハイソなイメージの職は、就業のハードルが高いが、なってしまえばほぼルーティン作業なため、こうした仕事はAIに取って代わられやすいと考えられる。

 

そうするとやはり、クリエイティブな仕事や、システムエンジニアのような専門性と永続的に高スキルが要求される仕事が候補に上がるが、医者などもこれに含まれるが入り口のハードルが高いことに加え、就業後のスキル維持の要求度はハンパなく高いので、AIが侵食し難い領域であっても、人間でも同じのためおいそれ転職は難しいと考えられる。

長くなったので結論を急ぐと、企業雇用を前提とする職業は職そのものの安全性とは別に、企業側の要求や方針によってAI対策以前に条件が不利になると考えるべきだろう。

 

かと言って自営を選択するのはリスクが高いと思う雇用に慣れたH人は、二の足を踏むだろうと想像するが、当面の貯蓄を確保するのに雇用職は、安定していてメリットは高いものの、ゆくゆくは自営化を目指さないと自身の自由度は狭められる。

職業選択の、雇用と自営の良し悪しは永遠に解決しないループ問題だけに、総意としての結論を期待できないのは言うまでもないが、間違いなくお金を稼ぐ上では不可避なだけに、ここは経営者的な合理的で自由度の高いリスク選択をできる立場を目指すべきだろうと思う。

 

残念だが、その理想像は人によってさまざまなために、一人一人のコンサルは無料で手に入らないことは言うまでもないが、そもそも企業にとっての理想的な雇用者とはどのようなものか?

 

それを各々が追求した反対側に、その答えのヒントがあるように思うのだが、

さていかに?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネクラな話題多くなるねー(TOT)それでも、いじめの根っこの話。

すでに成人のくろまにとって、その時代と今青春真っ盛りのこどもたちとは、GG(ジェネレーションギャップ)が相当広がっていて、今更こどもたちのリアルな問題を語っても、追いつけないと嘆くこともあるが、あえて踏み込むのはいじめの話。

以下の記事は、仮想コミュニケーションの場が、いじめの温床や隠れ蓑に利用される悲劇と課題を取り上げている。

 

toyokeizai.net

女子中高生「インスタいじめ」の執拗なやり口 | 子育て | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

いじめのやり方を昔と比較すること自体意味が無いと言われるかもしれないが、それは生活習慣の変化や少子化、何よりあらゆる生活の利便性向上、それと共に自由時間が増えたことは、比較に値すると思う。

ただ今も昔も、そしてこれからもいじめの本質は変わらないだろう、それが人の多様性を赦せない気持ちの、ゆとりが減った時にいじめの衝動がおこるからで、ゆとりを見失った者の目の前にたまたま居た者が、そのはけ口になっている。

人は、悲しいかな心が不安定な時には、自分を少しでも正当化しようと、今自分より弱いものを貶めて、相対的地位向上を衝動的に起こすからだ。

 

いじめが厄介なのは、この感情がいじめの主役に自覚しにくくなっている点で、更に主役が影響力の強い者だと、客観的に判断できるはずの脇役達も主役に引っ張られてしまう、その集団が多ければその分隠されてしまう。

その段顔で、更にその外に居る観客は文字通り”傍観者”となることで、目の前のいじめがまるで普段の出来事のように見てしまう怖さがある。

 

情報の氾濫によって、そもそも善悪を示すべき大人自体が迷走しだしたことで、こどもも自覚が曖昧になり白黒の判別ができなくなっているのは、昔のケースとは変わっているかもしれないが、いじめの本質は変わることなく、むしろ無くそうとムキになるほど無くならないだろう。

 

高齢の大人世代のこども時代には、良し悪しは別にしても道徳教育がその判別の目安とされていて、戒めの効果があったが今はどうだろう?

人の行き過ぎを戒めるものは、時代によって変わってきたものの、その本質である人の限界を悟らせてくれたし、行動のものさしになっていたと感じるしまた、それを素直に受け入れてこれたと思う。

 

いじめの本質は無くならないだろうが、それを減らそうと努力する一方で、事実を覆い隠して無かったのようにオブラートでくるむ行為も常習化した。

情報の氾濫で、判断すべきことが増えたと誤解し自ら余裕を失ってきた現代の人々は、いじめを認めて反面教師とせずに、手っ取り早く無視することで、他の関心ごとに気持ちを割り振ろうと、躍起になっている。

 

こんな大人の姿は、吸水性抜群のスポンジのようなこどもの心にそのまま吸収され、一度染み付いたらそう簡単には絞り出せなくなる。

こんな大人の姿を彼らに見せないようにするのはほぼ不可能だし、好奇心旺盛な彼らにはむしろ逆効果で、見せた上でこどもにどう諭していくか? 慢心する人の心に”たが”をはめるすべを学べていない大人にとって、とてもハードルの高い課題だと思う。

 

ただ光明があるとすれば、大人は威張らず素直に情報過多時代のネイティブである子世代に情報の海の渡り方を、学ぶべきかもしれない。

年齢を重ね経験豊富な面はこどもに教え、新しい時代の生きるコツはこどもからだ学ぶという共同作業は、これからの人が追いつけない速さで変化・乗増する情報の波に飲み込まれないための最善の方法だと思う。

 

波さえ乗り越えるすべを体得すれば、いじめを無視したり無かったことにしなければならなかった、心のゆとりを取り戻せ直だろうか?

そのための大切な第一歩は、昔は当たり前にあったコミュニケーションの復活にあるのではないか、

昔のように当たり前では無くなった情報交換の寸断が、情報の乱立で混乱したことで起こっているこの皮肉な現状は、

逆に人の判断力を下げ、

疑心暗鬼を助長しているのだ。

 

大人はその事実をまずは受け止め、

こどもにそれに対処するすべを学び、

自分なりの取捨選択で心のゆとりを作り、

判断力を上げてこどもに還元する。

 

このサイクルによってコミュニケーションは機能し始め、

交流によって、人はますます人らしくなる。

 

その結末にこそが、いじめの根源的減少につながる。

 

とまあ、理屈はそういう事になるとが、人は揺らぐ生き物だけに、AIみたいに有言実行は容易ではないのも現実。

 

それでも仮説や筋立しながら一歩一歩、

向かい風に押されては向かって進みたい。

失敗は一度や二度は赦してもいいじゃないか!

 

結局それしか、これからの時代に人間の価値を示す術は無いのだしね。

それで、気持ちが少しでも和らいだら、儲けモンじゃない?

 

 ありがちな話で締めますが、

いじめにかかわらず人との気持ちの差を感じたら、

「〜すべきです!」

というよりも、

「〜でいいんじゃね?」

くらいで、あえて気持ちを曖昧にする処世術はマストだと思ってます。 

アメリカと中国の間で生きる国ニッポン

世界マネーを完全にコントロールする国が、最も疎ましく見ているアジア企業の話題の背景にいる国家。

この2大国に地政学的だけではなく政治経済の面で、間に挟まれた私達の国はどこに向かえば良いのだろう。

 

 

 アメリカ合衆国は資本主義の経済社会では、常にトップに君臨し、ベンチマーク

でなければならない自負があって、それ自体が正義であり、それを遂行するためには行動すべてが正義でなければならない。

 

この国が成立した歴史と経緯を遡れば、アメリカは経済社会の進化と共に成長してきた国だとわかってくる。

 

そうした国家において、社会主義国家が自分のテリトリーに介入しようとする行為は、資本経済にとってのレジスタンスであり、危険分子と判断し敵とみなす行動を、アメリカは一貫して実行してきた。

 

web.smartnews.com

中国IT大手「ファーウェイ」の正体、米国が最も潰したい企業 (ダイヤモンド・オンライン)

 

 中国だけでは無い、傀儡国である日本でさえも彼らの主義に異議を唱えれば、精制裁の対象になるし、そのスタンスは一貫してアメリカ大統領の裁量で守られてきた。

日本はその経済社会において、アメリカの傀儡国家の役割を果たしてきたし、多くの国民はこの関係や役割を普通に受け入れ、違和感なく生活している。

 

このままでいいのかどうか?など日本らしい姿勢を、今後模索すべきかどうかは賛否両論意見が分かれるところだが、あえて大きな破綻を感じなければ日本は、このままアメリカと運命を共にするだろう。

 

地政学的にもアジア圏の防衛の要として、御庭番としての価値が認められている間は、ある程度の存在価値を示せるだけに、第二次世界大戦以降政治的大国に食い込む野心も抑えられた国が、今後その野心を引き継ぐ中国とどのように付き合っていくのか?

 

近年安定してる安倍政権は、野心と傀儡のバランスを変えていくのだろうか。

使えない、メディアの台風・地震報道

視聴者側も既に看過してしまっているのかもしれない。

 

日本という国は、地政学的に台風や地震とうまく折り合いをつけていかねばならない宿命の国。

地震は予測が困難なので、事前対策は可能なら耐震補強や保険加入。

台風は沖縄の人々みたいに、当たり前のように耐防風補強や生活品の準備。

 

生活習慣の一部に組み込んで、起きたら即対処・撤収のサイクルに馴染むしか無い。

それぞれ被害規模にもよるが、政府もどの国家予算より最優先で復旧費を拠出できる準備が必要だが、残念ながら現状は想定外でかたつけられ、最後まで面倒をみないまま、打ち切ってしまっている。

 

さて、メディア報道はどうだろう?

結論から言えば、起こる前は祭りのように煽るだけ煽って恐怖心しか訴えないし、起こった後は混乱状況を今更のように叫びまくるだけ。

その間、申し訳程度に「気をつけて下さい」「備えましょう」とか分かりきった事を繰り返すだけで、視聴者に役立つ情報は流そうと努力さえしない。

 

毎回災害の規模や影響力は異なるが、今のメディアはそれを変化した数字だけ変えて”通知”するだけで、後で責任問題になりそうなリスク回避最優先にして、持論情報は避け、専門家を焚き付けて扇情的なエンタメ性を助長。

 

どうも被災地以外の視聴者の好感度を期待した番組づくりを優先させているように見えてならない。

 

news.yahoo.co.jp

日本にもほしい? 台湾の台風休暇の話。(田中美帆) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

メディアが流すべき情報とは。

くどく思われようと、絶対必要となる信用情報を何度も何度も流すべきであり、当事者に最優先で届く必要情報をどう伝えられるか?

 を音声映像で明確に伝えること。

通り一辺倒の未加工の数字を垂れ流しても、受け側に伝わるものではない。

正確な最新の情報を速やかに噛み砕き、子供でもわかるように、また精神的ゆとりの無くなっている人でも、正しく判断しやすいように、一般情報とは異なった表現方法を提供しなければ、メディアの緊急情報の価値は皆無だし、それはプロとして当たり前の仕事のはず。

 

視聴者目線で番組制作するのは平穏なときにすべきで、緊急時にお祭り騒ぎごとく一緒になって、煽り、右往左往して騒いでも、混乱を助長するだけでその回避や改善に何も役立つことは無い。

 

その点で、彼らは緊急時に使える情報の提供に徹底できていない点で、むしろ障害にさえなっている自覚はしてほしい。


「正確な事実を報道するのが使命です」

 

という言葉が返ってきそうだが、それは最低限で当たり前の事で、それだけならただのメッセンジャーボーイなだけで、存在意義が薄すぎる。

 

更に、事実を報道しているのと同時に、報道側の不安や迷走感まで伝えている自覚が無いようで、流す以上は視覚的・音響的に配慮したものでなければならないはずなのに、この点では結果的に見てもむしろ逆効果の演出をしている意図が理解できない。

 

 

努力が運で実を結ばない進路に、希望を見出す環境

また新たにがん治療に関して、日本人研究者のノーベル賞受賞に、自然災害ニュースの多いなか、希望のある話題があったのはとても喜ばしいです。

 

この明るい話題のなかで、受賞者の本庶佑(ほんじょたすく)氏が語られている内容で、基礎研究費用の減少を憂う下りがありましたが、IPS細胞開発者の中山教授もおっしゃられていたように深刻な課題が印象的でもありました、そこで今回は研究や学習の基盤になる大学制度について書きます。

以前から日本の大学受験制度に首をかしげていていまして、くろま以外の人も同じような意見をされる方も少なくないのであながち的違いでも無いと思うのですが、入り口を狭くして出口はゆるゆるな進路システムは、たくさんの機会損失を生んだように思うのです。

 

日本の大学の最高峰と言われる東大は、戦後も日本人の知能象徴として国内外に君臨している印象がありましたが、ここに来て世界での大学ランキングではその影は見られず、新興国の大学にさえあっさり抜かれると言う、日本人の認識からは驚愕的な事実がわかっています。 

戦後技術面では世界のトップを走ってきた日本は、それだけに猛進してきた一方で、知財開発や人材育成、その国際化対応において無防備なほど準備をしてこなかった結果が、こうした大学制度の見直しの遅れにつながったのでしょう。

 

実際に、下の引用記事にもあるように、学歴社会においてサクセスのチャンスであった有名大学(記事では東大)へのキップを手に入れる絶望的な現実の検証を見ることができますが、入り口が狭すぎて努力よりも運で合格が決まって、出口はゆるく将来が保証される制度によって、大企業や官公庁と言う日本の将来を左右する、学閥や派閥の影響力を高める結果につながったのは、日本の発展を画一化し将来への可能性や柔軟性を極めて無くしてしまった現実へと誘う事になります。

 

www.goethekyodai.xyz

「勉強すれば誰でも東大に入れる」という幻想 - 我、京大生ぞ

 

有力な大学合格さえクリアすれば、将来の保証がされると言う幻想を本当に実現してしまった日本の教育制度は、グローバルレベルの変化の波に当然対応できるはずもなく、世界ではマイノリティなエスカレーター式に乗っかる事しか考えられなかった人々が、海外の文化経済や語学学習を怠った結果、東大のランク外と言う残念な現実となって、現れました。

 

政府は今更のように、場当たり的な英語学習の推奨をうたいだしましたが、現状の学閥派閥組織が居座る間は、根本的改善は見えて来ないでしょう。

私達に残された緊急措置は、個人個人でリスクを負って進路を決めて行動しないと、就学期間の10年などあっという間に過ぎてしまいます。

 

 まあ、合格し成功を約束された引用記事筆者や、特別高学歴でも成功者でもないくろまが言うことが、どれほどの説得力があるかはわかりませんが、これらの現実を危惧し国内教育制度に不信感を持つ人は少なからずいるという実感はあリます。

それでも、場当たり的な行政が見え隠れする国内の事情を少しでも理解するきっかけになればと思いますし、日本が経済成長ありきで雇用増大に始終した結果、今までおざなりにしてきた経営や語学、創造と改革のノウハウ、その資金管理方法と可能性についての魅力を、海外の大学と同等に学ぶ仕組みを実現すして始めて教育改革と言えるのではないでしょうか。

 

今の日本国内の教育市場は、新興国の発展を望む者たちがノウハウを身につける以外は、魅力的な市場と言い難い状態ですし、少し前までそのひとつであった中国人々は、それさえ飛び越え欧米への海外留学に活路を見出しています。

世界情勢にダイナミックに対応することが、エスカレーター式教育では通用しない現実の中で、それでも国内にかろうじて育つ優秀な人材が、海外に流出しないうちに対処療法を的確に施さない教育市場は、日本をより孤立化させかねません。

 

国が適切な対処をしていないと感じるのであれば、それぞれでリスクを採っても世界の流れについていく手段を講じて然るべきでは無いでしょうか。

成功者の定義が話題に登ることがありますが、この現実に対処できるか否かにその答えがあるように思いますので、今置かれている立場を冷静に判断し、国を可能な限りあてにして、あてにできない分は自分で踏ん張るしか無いのが、残念な現実の日本と言うことです。

 

このような次世代の可能性や才能を伸ばすのにとても重要な玄関口となる大学や大学院制度は、新時代に向けカイゼンされなくてはなりませんが、今回の本庶佑氏のような有志の気概は、とても励みになって希望を見出せた点からも、良いきっかけになることをせつに望むものです。

例えば医療も投資も、商材のひとつに過ぎない件

久しぶりにガン治療での明るい話題が報じられ、少し医療に光明が見えたのは、素晴らしいことだ。

 

一方で相変わらず命のビジネス化の傾向は勢いを増す一方だし、資産運用方面でもとても多い。

 

まず資産運用から見ると、摩訶不思議なロジックを真顔で書いている記事を往々にして見受ける。

例えば、

 

headlines.yahoo.co.jp

なぜ今「貯蓄から投資へ」なの? 昔の「投資は危ないからやめなさい」という常識が通用しなくなっています(マネーの達人) - Yahoo!ニュース

 

書いてある事実は、決して”間違ってはいない”ので、責めるつもりでは無い。

ただ思うに、この手の話の実際の理由は、

 

「隠し持っていたら、奪い取れねーじゃねーか、カス!」

 

貯蓄神話をなんとか崩し貯蓄しづらくして、金の流動をあの手この手のもっともらしい甘言で、誘導しているだけなのではないか、ということ。

特に古い日本人ほど、渋ちんの基質が染み付いているので、新しい舶来モノに目がない彼らから、円の流動を作ろうとする。

 

 

次に、先日国内の薬価の値下げがあると聞いたが、単純に喜べるだろうか?

なにが言いたいのかというと、

 

モノの値段が下がる時はどういう時か、を考えると。

 

1、売れないので、バーゲンセールする。

2、見込み客が増えるので、単価を下げられる。

 

の2通りだが、この薬の場合どう考えても1はあり得ない、つまり現在時点か近い将来に向けて、薬の購入者が激増する事が決まっている、から値下げできるのだ。

 

単純に見れば、これからはお得意様の高齢者増加が見えているからとも取れるが、薬種にこだわる必要がある。

 

例えば、ガンや精神病に関連する薬、その呼び水になる胃腸薬や頭痛薬といった、サプリ感覚の薬などだ。

最近ますます、ガンやストレス急増をまやかしの数字で煽る広告やニュースが増えているが、これらの情報に不安を覚える人々が、子供から高齢者という大量の見込み客としてエントリーされるのがわかっているので、バーゲンを始めればバク売れ必至なのである。

 

 

健康ビジネスと共に、投資ビジネスも同様に今後多くの見込み客を期待できる点を、メディアはウヤムヤにしつつ、購買欲増加のいち役を担っている。

 

こう考えると、これらの情報はとても気持ちの悪い違和感を感じるようになってくるのは私だけではないと思う。

書いている本人が自覚しているのかいないのかはケースバイケースだろうが、まあ、プロライターが書いている以上、クライアントの事情を忖度するのは当然だろうから、ほぼこれらの情報は黒と見て言い過ぎではないだろう。

 

この期待を、ビジネスに利用する側と、見込み客として利用される側の差は、今後ますます広がるのがミエミエなのに、メディアはこれからも紛らわしい数字やロジックを使って客引きの手伝いをするのだろう。

 

これらロジックの見解の違いや善悪をどう判断するかは、それぞれにお任せする。

アメリカ偏重経済が示す未来、世界自然災害増加との関連性

このテーマについては賛否両論あると思うが、関連度が高いとすれば今後ますますアメリカ経済の優位性は高まることになる。

その中で少しでも日本が優位性を取り戻すために一番やってはいけないのは、災害が意図的仕組まれたとかの現実逃避的な雑念を起こすこと。

 

第二次世界大戦)戦後、日本が経済成長を実現したことから学ぶべきは、戦災にくさらず生き残るが故に行動した、その誇るべき日本人の精神性に他ならない。

GHQが真に怖れ、叩こうとしたのは”神風特攻”の精神というよりも、日本人の反発力とひたむきさが、アメリカ経済成長の妨げになると分析したからであった。

 

この類まれな精神力は、本来新興国特有のものなのに、アメリカは先進国だった日本を先進国並みに扱った結果、思わぬ反発をくらったと言う事だ。

 

今、アメリカは当初の計画通り新興国経済の成長コントロールに成功しているが、日本に対しては疑心暗鬼になっているかもしれない。

本音は「イエローモンキー」と蔑みたいのだろうが、侮れないサルを扱いかねているという状況であり、この状況は日本が地政学的に「僻地」だったことも幸いしている。

 

しかしこれからは、ネットワークという地政学バイアスを弱める、強力な武器を引っさげてあらゆる国を平定し、いよいよグローバル経済の首を取ろうと、あらゆる手段をこうじてくるのは事実。

その戦争において「情報操作」のスキルで追随をゆるそうとしないアメリカは、全世界を仮想敵にして完全勝利を図ろうとしている。

 

その中で日本が採るべき道において死守せねばならないこと。

それはやはり、

人災だとか安易に責任転嫁せずくさらず、

自然災害に対して試練と自覚し、

歴史が示すかつての先人が引き継いできたことを守り、

ひたむきさと自然に抗わずに付き合っていくこと。

 

日本人には、今のところ日本国土という帰るべき家がある。

将来無くなる可能性はあるが、ユダヤ人のような生き方もある。

 

この地は、現代でもましては将来も、世界にとって最後に行き着く黄金の島なのだと思うのだ。

その証拠にアメリカは蔑む人種が住む島であっても、手放そうとしないのは未だ何某かの優位性があるからだろう。

 

加えて、リアル戦争では国土に組み込まなかったのは、他国にかすめ取られたく無かったからで、そのかわりネットワークと言う武器で、見えない縛りを加えているだけ。

 

そんな現実の中でも、先人の教えを守って生きれば、未来は続くのである。

その精神性を侵すものに目を配り、いかなる者からも奪わせない強かさ。

 

これこそ世界における、

日本人の誇るべき優位性だと、

私は信じている。