スタバに「必死に仕事してる」感出しに来るヤシ
今回は、もっともらしく言えば「仕事の効率性とTPOのバランス」とか畏れそうだが、単なる愚痴であり飛ばしてもらって構わない内容。
この手のエピソードは、自分へ返ってくるブーメランになりやすいだけに、普通は書かないけれど、あえて書く。
スタバで仕事するワーカーの1人である筆者、
そのスタバで仕事する客は相変わらず多い、それは環境を変えて仕事をしやすくする手段として良いことだし、市民権?も得ていると思っている。
しかし同時にスタバにはその状況を誤解しているものも少なくないと感じている。
例えば、アメリカンビジネスマンよろしく、朝からオフィスさながらのやる気バリバリアピールな奴は、相変わらずごく一部にしても一定数いる、とか。
とか言ってる自分もスタバで端末叩いている1人に過ぎないが、ほかのワーカーと異なって明らかに違うオーラを醸し出すのは、周りの誰もが感じているのが分かる程、突出している。
最近見る、彼らのドヤツールはどうやらMacBookではないらしく、Serfaceの最新型のようで、スペックモリモリの最新ガジェットを使いこなす感が半端なく、
パタパタ……とクソでかいタイピング音を鳴り響かせて、
「オラオラ!仕事してんぞ」感を出すことに異常に固執していて、周りのワーカーがTPOをわきまえて、パタパタしてる中で空気をぶち壊してる。
仕事、切羽詰まってるのかな……とも思うのだが、日本なんだからさ。
周りの人、そうじゃない人もいるじゃんさ。
仕事しようが、おしゃべりしようが、動画楽しもうが自由な公共の場。
本当に余裕が無くてテンパってるならまだ仕方ないねで済むけれど、
この前のヤツなんかは顕著で、明らかに単なるオレオレ感全開で、被せるようにパタパタとキーをまし打ちしてくるし、無視して打ってると「あ〜!!!」とか背伸びしたり、書類をバサバサあからさまにめくったり。
殆どの人がそれ程大きくない筈のタイプ音に、やたらと過敏みたいでどれだけ気をつかって打っても、いちいち反応してくる過剰反応に周りも「当たらぬ神に祟りなし」とばかり。
文字数たくさん打たなきゃならないんだから、いちいち止められんでしょう?
スタバでヘビーワーカー感アピールするヤツがいなくならないのはなんでだろう。
仕事に集中しやすくしたくてスタバ利用するのがフツーだと思ってる人が殆どなのに、わざわざ朝一番の景気付けにでも来てるのかね。
そのてのアピールなら、会社で頑張った方が評価高くなるんんじゃね?
場所間違えてるよ。
たしかにかつて、スタバで仕事アピールやMacユーザードヤ!は流行ったことがあるし、それはそれでいい。
でももう、Macや高額ガジェット自慢や仕事「やってる感」演出するブームはとっくに終わってるし、むしろ顰蹙買う時代。
仕事をするのは自由だし、自分もスタバで仕事したい時多い。
こヤツらと同じと言われればそれまでかもしれんけど、
会社環境と同じに、端末を「バチバチ」叩いて顰蹙買う者はそれなりに居たが、
スタバでその延長やるのはTPOを気遣ってる者達からすれば “?” なのだ。
会社でできない積み残しをするのは仕方ないと思う、
自宅なら好きにすれば良いが、公共の場でまるで日頃の鬱憤を晴らすように、
書類をパラパラ、端末バチバチ、オーバーアクションで仕事感アピールするのはどうかな、と思う。
最近こういうヤツがいたら臆することなく、自分はそのヤツ前の席に座って淡々と作業をする。
周りに気遣っている人なら、協調性があるのですぐわかる。
でもそうでなく、対抗心むき出しにしてくるヤツは、周りにわかるように対抗心むき出しにしてくるので、それを気にせずその状況を楽しみながら作業している。
それでも周りに配慮しつつ淡々と作業してると、そういう者に限って、
わざとらしいため息をついて去っていくか、
さっきの勢いがどこへ行ったか、大人しくなって仕事に集中するようになる。
そもそも、アピールするところでも無いのに、無駄な労力を朝から発散して、その日1日持つのか心配したくなる程、本末転倒なリアクションは生産的でないと気づいてほしい。
強いていえば体力の衰えつつあるくろまには、その余りあるエネルギーがうらやましくもあって、ある意味嫉妬しているのかもしれないけれど、看過できなくなるシーンが未だ減らないのには、ため息がでる。
……憂さ晴らしに、この記事を書いているだけなのだが(汗)。
次期タント年末年始はナシ……ユーザー不在の新車
N-VANが発売されたころには、年末年始モデルチェンジの噂もあったDAITATSUタント・MOVE。
トール軽1BOXのHONDAやSUZUKIの売上好調の中で、まだまだ引っ張ると言う戦略に、そろそろ期待される新車発売は、いつなのかな?
噂をいろいろ物色しても、明確な時期を拾った記事はなくほぼ迷走状態。
「来年は期待していいんじゃね?」
くらいのノリで、スクープサイトでも具体的な情報は無く、推測・希望的観測情報にとどまっていて、6年目の正直も怪しい程。
ダイハツ タントにお買い得な特別仕様車「VSシリーズ」が新登場|【業界先取り】自動車ニュース2018国産車から輸入車まで【オートックワン】
タントをネタに、本題の話をするとさ……
ただね軽自動車に限らず、自動車そのものの根本的なあり方が変わろうとしている過渡期なだけに、電気自動車へのシフトも各メーカーで手探りで、自動運転車に関わる技術・安全性・インフラなどの規格統一や整備は、模索の域を超えていない段階の中で、イメージや利便性だけが先走りして各メーカーもやりにくそう。
そんな中で、軽自動車という限定市場の中で、不透明な先行き固まらない時期に入っちゃったために、ロングラン路線のタントは新しさを出しにくくなっちゃってるのかもね。
今まで通りのような、「他者を出し抜く斬新さやインパクト」を打ち出しにくくなってて、HONDAが地味な工夫なのに爆ヒットしちゃってるから、DAIHATUはこれまでのようなパブリシティ戦略が作りにくくなってるんだろうと思う。
元々からDAIHATUのそれは「後出しジャンケン」と「装飾メイン」でインパクトを演出する手法で売ってきた会社で、基礎技術的な技術をベースにする「軽量化」や「高燃費・効率化」などの基本部分の画期的な改良は、あまり積極的でなかった分、HONDAやSUZUKIのような革新・チャレンジャーな売りで勝負できなくなってる。
先に発売された「トコット?」はその最たるもので、全く初の新車のアプローチとして「女性主体で規格」したマルチ・ジェンダーな車というコンセプトだったけど、これはこれで来たる「自動車のツール化」時代に前向きに取り組んだと評価できるし、メーカーサイドの方向性模索の実験としてはメリットあっても、ユーザーサイドから見て「だから……何?」と覚めた評価に終わりかねない。
ユーザー目線を徹底した車と、メーカー目線でアピールする車では、どれだけかっこよくてもどれだけユーティリティをアピールしようとも、その想いは伝わらない時代に、正直DAIHATUのメーカー目線路線は、くろまには鼻に付(あくまで個人意見)いて仕方なかった。
所詮軽自動車だけどね、目くじら立てるのもどうかとは思うけど、されど自動車。
でもね、軽自動車こそ自動車のあらゆる可能性を凝縮した車だと思ってるから。
メーカーの事情は様々あるとは思うが、ユーザーに最も響くタイミングでモデルチェンジできなくなっている時点で、売れ筋にするチャンスを自ら放棄してて、上から目線感は半端なく感じてしまうのだ。
DAIHATUさん、これだけ引っ張ったんだからさ、
何か一つでも良い、
自動車の可能性を示す何かを提げて、
日本の自動車メーカーここにあり!
ってな、デビューを期待しちゃってる自分は、本当に車バカ(汗)
中国経済斜陽期に、当局報道官の火消コメの効果はいかに?
元の下落が止まらない中で、中国株の世界経済の連動が顕著になり、
貿易輸出量は減る状況は続いている。
この状況を見て中国政府は、輸出関連国に対し火消しのコメを出した。
途上国、中国との協力で「債務のわな」に陥ることない=外務省 (ロイター)
相変わらずの対処療法的な内容ではあるものの、習近平主席の体制固め後の、中国経済の斜陽化は、今までが世界経済とは独立していた元の最大公約数的な国内経済効果のメリットがいよいよ目減りし出したことの現れだろう。
アジア諸国で日本に続き、タイのバーツが貨幣価値の安定化が進む今、今後の貨幣価値としての元の基軸貨幣化へのプロセスを習近平政府は、最短で実現すべき段階だが、中央集権化が著しい独自経済体制での強引とも言える中国独自経済システムの強制力は、どこまで通用するか。
米が強気にこの動きを止めにかかり、欧州勢も問題大きなかでユーロ高金利の動きで影響力を高め、アジア諸国も一路一帯政策からの警戒感を強めており、元の欧米経済システムへの組入れに甘んじる流れは変える事ができるのか。
中国のあがきは、来年の国慶節にむけての最大のトピックであろうと思う。
文字通りの節目として、どういう動きを見せるか注目していく。
日本らしさのグローバル化の兆しは見えるか?
最近思惑通りに、外国人観光客増加と日本文化の認知度アップは進んでいるようで、うれしいかぎり。
この上に「大阪万博」招致決定で、その勢いが増してくれればさらにいい。
その兆しは、京都をはじめとして代表的な観光地の取り組みをみても、向上心を緩めることなくさらなる向上と工夫の姿を見れば、わかる。
地方創生の観光ノウハウの積み上げも、そろそろ効果を発揮し出していて、今後の課題は英語対応の向上にかかっている。
海外人材導入の是非に盛り上がる中で、英語ネイティブ人材の積極的なリクルートはもっと加速していいと思うし、教育現場への導入も大事だが観光現場への導入によって、普段の生活の中での英語力向上も見込め合理的に思える。
日本人が英語力を苦手とするのは、今日に始まったことではないので急に解決するのは困難だが、その分即戦力である海外人材を充てがうことで、移民対策と観光問題の根っこを同時処理できるのであれば、国家レベルで即実行に移すべき案件。
闇案件なのは、自分が英会話を「完璧」になるまで現場に踏みとどまる消極性であり、一言でも外人とコミュニケーションを取ろうとする一歩を踏み出さない、偏ったこだわりにあるかもしれない。
ネットを使えるものは「グーグル翻訳」でなんとかなるし、中学レベルの拙い語彙力とちょっとした行動力で、意外となんとかなるという実感を体験するもが大事。
「自分は英語使う機会ないから」
と自分を慰めるのはいいが、これからは少なからずなにがしかの機会が増えてくる時代で、後で後悔しないためにも、
「なんの役に立つんだろう?」
と、今は思えても。
日本人の多くの人々の奥底に潜むコンプレックス・ネガティブ要因解消に一役買うメリットだけでも、大きいんじゃないかと思ってほしい。
かく言うくろまも、今はなんの価値も持たない「英検3級」レベルの語学力しかない上で書いているのだ。
言いたいのは、こうしたコンプレックスは、日本独自のものでありたとえ拙い英会話でも、生活に使う上では全く問題ないと言う事実。
喋れなければ、ジェスチャーだけでも同じ人間同士だし通じるのであり、日本以外の社会で生きてきた人との交流は、大きなカルチャーショックを受けるし、自分の人生をより豊かにする。
この心地よさをぜひとも体感してほしいと願う。
男子たる者、自由と常識の間の苦悩
公序良俗について。
風俗と呼ばれる、性ビジネスへの認識や節度のとり方は、法やや宗教観または国によって様々で統一することは不可能なもの。
日本で言う常識の範疇は限られることは重々承知で言えば、
日本において公共サービスエリア内では、たとえプライバシーの自由や秘匿性の権利があるとしても、他人の目に触れる可能性がある限りは、
自由であってはならない情報はあると思っているし、自分ならしない。
この選択は、人にどうこうといった強制力は示せないが、日本人が日本国内で居る間くらいは、こういうTPOを考えた常識がまかり通ってもいいと思う。
が、しかしだ。
世の流れに、そう簡単には従えない「何か」が男にはあることも、
男である筆者には解っている。
社会性と相反するこの矛盾を、
単に一刀両断出来ない立場でもあるのは、悩ましい。。。
昔、ロマンポルノなる芸術志向のポルノ映画があって、それ専門の映画館があったのを覚えている人の数が減りつつあるが、ネットのネの字も思いつかないような時代に、男子の欲望を満たす中でも、オープンにしやすい選択肢として存在出来た。
AVがポルノ映画に勝った理由 名作を紐解く (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
映画娯楽の衰退のアオリで消えていったが、実際に劇場が存在して老若男女が否が応でも目に触れた時代は、性におおらかだった。
情報のデジタル化で、激変した秘匿性は、
おおらかで素朴だった日本人の感性を強制的に、
選択肢を狭めさせ、
袋小路に追い詰めた。
自宅でコッソリ「エヘヘへへ……」するのは今でもできるが、
公共の場でのそれは、今はもう出来ない。
男の性の楽しみ方は、肩身の狭い立場と同じくして、
男の不器用さゆえの悲しい結露で片付けられていくのだろうか?
この先、反駁し自由を勝ち取るべきか?
ジェンダー時代に向けて、萎えて行くべきか?
そもそも生物学的に、男は弱い生き物なのだ。
男の自由の未来には、逃げられない壁がある、現実。
その現実を、男なりに咀嚼できているか、そうでないかは、
男に生まれた以上避けられない、
遠大なテーゼとなる。
ゴジラとは、人の自然破壊の警鐘と八百万神信仰の象徴
庵野監督版の「シン・ゴジラ」も相当インパクトがありましたが、先ごろ完結を迎えた通称「アニゴジ」シリーズ3部作も話題になり、結構な仕上がり具合でジャパン・アニメの話題に、事欠かない名作として取り上げらげられています。
『アニゴジ』は“ゴジラ作品”としてどうだったのか? 3作かけて向き合った壮大なテーマ|Real Sound|リアルサウンド 映画部
「ゴジラ」に求められてきたアクション性や娯楽性ニーズの欠如で、長い間封じられていたシリーズにおいて、海外での注目度が高まりハリウッド映画化した経緯もありましたが、この2作は邦画としての「ゴジラ神話」を鮮やかに復活させた意味で、大成功した作品ではありますが、元祖特撮ゴジラシリーズから綿々と引き継がれるテーマには全くブレはありません。
そもそもゴジラとは、怪獣の姿をしてはいますがその本来は、日本神話から綿々と引き継がれる自然信仰への畏れの象徴が具現化した姿でした。
初代では、原爆被害への憤りと公開当時社会問題だった環境汚染という社会問題への警鐘という名目で映画化され、そのあまりにも重いテーマと高度成長期の娯楽重視傾向の映画娯楽との板挟みで一時的に役目を終えた経緯がありました。
もう一つの背景として、当時からの日本のアメリカへの忖度気質によってタブー視された面が少なからずあったでしょうが、しばらく後に米ハリウッド版GOZZIRA」が続けて公開され、アメリカ市民のリスペクトと評価を得たことで、邦画版復活の素地が見直されることになって、晴れて名監督・脚本による復活となったことで、最新技術による今見ても色褪せないクオリティの作品に仕上がりました。
それ以降、ゴジラはアメリカ版と日本版の二足の草鞋を履くことになったわけですが、娯楽性については両シリーズとも遜色ないレベルで肩を並べますが、一方で根幹に流れるテーマは別々の流れを汲むことになります。
米版は国内でも問題かされ出した「自然災害」への警告にとどめ「核被害」にはセンシティブな仕様になり、日版では両方を継承しつつも、「シン〜」では現在の複雑な政治構造への皮肉を、「アニ〜」では最近明らかにされつつある宇宙の構造探求と、より日本人に関心の高い現代性を匠に盛り込んだ仕様で、どちらもリアルな映像表現もウケてヒットしています。
今回は特に最新作アニゴジから、注目したいテーマに絞って記事りたいですが、本作は敢えて娯楽性を大人限定としかつ、社会問題から大きく離れた位置で、ゴジラやおなじみの怪獣を地球全体と宇宙構造の仕組みと置き換えてスケール感を高めているようです。
この手法は日本アニメの歴史では「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」より引き継がれる宇宙ロマン路線の流れを汲んでいるのかもしれませんし、それに上乗せして大人でしか解釈が難しい宇宙の科学的解釈と、ゴジラ普遍テーマの自然畏怖の精神的解釈を高次元で映像化しているようです。
実写版ではできないアニメ独自の映像表現と世界観構築を、話題の制作人材によって繊細かつ複雑に仕上げた印象が強く、元祖が受けなくなった「単純に楽しめる」娯楽性をビジュアル面以外はストイックに削いだ印象が強く、そこがこだわりアニメ派に刺さる新しい方向性の娯楽を生んだとも言えます。
今、別作品の「宇宙戦艦ヤマト」がリメイクされアニメシリーズが進行していますが、これらの作品が単なるSFエンタメ作品としてではなく、日本歴史文化の遺産としての注目度が高いことには、大きな意味があります。
最も長かった昭和時代に産声を上げ今鮮やかに復活を見せるヤマトやゴジラ作品が、何を訴えんとするかは、日本に住んできた私たちには永遠のテーマとして理解されるものですが、最も重要なことは日本がブームをつくったアニメ・映画によって、今後も多くの世界の人々にメッセージを伝え、これからも親善大使としての役割を担っていくのでしょう。
最後に、多くの人が気にするだろうゴジラ(GODZILLA)名前の由来についての記事があったので、添付しておきます。
謎は深まるばかり!? 「GODZILLA」と表記する訳と名前の由来を東宝社員に聞いた! - ウォッチ | 教えて!goo
グローバルbusinessとローカルbusinessの差
戦後日本の経済成長は、昭和リアルな時代を見てきたくろまにとって、ありありとその形跡をたどることができる。
日本にとって敗戦は不幸だったが、おの反面反駁の勢いが増して高度経済成長に繋がった、人も多かったからそれを支えて「ひと・もの・かね」のバランスが良く、前向きなベクトルとして機能した時代だった。
あこぎなことも、アレコレあったしそれ自体は負の遺産だったかもしれないが、それ以上に向上するモチベーションとなにより勢いが止まらなかった。
その勢いを代表する田中角栄氏の「ブルドーザー式」と言われた経済政策で、山となった課題を、公共事業でモリモリと押し返しながら、金を生んで行ったのだ。
今は、その勢いは無いし、若い世代なら伝説どころかその事実さえ知らない者が多くなった、時代は変わったのだが、くろまを含む昭和世代はその現実を未だ直視していないように映る。
気がつけば、年金システムは滞りを匂わせ、エスカレート式と言われた教育と就業は保障されなくなっている。
それでも物価は、その落差をあざ笑うかのように、小ぶりな上げ下げしかしない安定ぶり、政府の経済指標も乱高下することなく日本語の曖昧な「やや〜」とか言葉遊びに思えるよな表現でまやかしている。
「日本は、平和ボケしてしまった……」
そう思う人がいて当然な時代。
その一方で、「豊かな恩恵」の時代と、
若い世代は、安定した社会を前提とした生活を謳歌している。
戦争の苦渋を経験した世代は一気に減少しながらも、その姿を溜飲を下げて見つめるもの、失ったものを嘆くものと別れるが、いずれにしても安定した平成時代にかつての勢いと変化のあった時代を懐かしみながら、余生を送っている。
この日本の姿が、世界のそれと同じならばそれはそれで良い。
しかし、現実は乖離しつつあるように思う。
多くのひとは、その危機感を肌で感じていると思うが、その危機感を一番感じているのは政治家であり、彼らはその勢いを維持する政策を国民への複利充実より優先して進めている。
豊かな国の政府がする政治とは思えないこの行動が全てを物語っていて、我々もこのままではいけないという危機感は持っている。
それでも日本の市場は、何か他国の先進国とは違和感があるのはどうしてか?
明確な答えは、
「資産の先食い」
にあると考える。
景気が上向いて、生産率も上がっている、この点は順調と言っていい。
その最中に、その収穫を「今の幸せ」のために先食いしているのだ。
その結果、かろうじて日本は安定している空気を維持し、それに乗じて消費が加速させているのであって、その出どころは国家予算の借金積み増しと、国民資産のローン増加による先行消費にある。
かつてアメリカの「プライムローン」にあった、借金先行型の経済成長計画を、今日本国内で実行しているということであり、懸念するは「東京オリンピック」「大阪万博」で、益々その勢いが加速していくことだ。
これら2大イベントによって、外貨獲得が優先されれば多少緩和されるかもしれないが、おそらくそれを上回る国内資産の先食いがわかりにくくされるリスクの方が大きいのでは無いかと考える。
これは政府・企業に限らず、赤字であればメディアでポジティブ情報で補填するという常套手段であり、特に日本政府は巧みにこうした公共事業・イベントを盾に、日本の景気上向きのイメージを上げてきた。
これ自体に罪はないが、平成に移って以来日本の景気はこのアゲアゲ政策でさえ効果が薄くなっている。
これまでは、自分が自分を騙して精神論でモチベーションアップできていた時代だったが、世界経済はそのアナログな精神論をあざ笑うかのように、多くの犠牲を払って国同士の経済戦争を戦っているのだ。
費用対効果が低くなっているところに、立て続けに東海新幹線リニアも含めた「未来志向」イベントをこれでもかと言わんばかりの連投を繰り返している、そのアピールによって世界経済に肩を並べていると見せなければならないから仕方なかった。
平成に続く元号は何になるかはわからないが、偶然か必然か日本の実質経済力に併せて元号が目まぐるしく変わっていく時代、来年は西暦で言えば単に2019年と記されるだけだが、元号で言えば日本の課題を背負った新たな時代に踏み込んでいくのである。
これからの時代を戦う日本にとっての課題は、政府が日本の価値「協力とまじめさ」をいかにまとめ、優良企業の成長は緩めないようにしながらも、全体像としての「オールジャパン」体制でまとめ、企業ブレーンと戦略的に才能ある企業や人材を活用できるかが成功の鍵となる。
そして、国内の資産の信用性が高い今のうちに、人材不足によるマンパワーに頼らない効率の良い経済成長を模索し、実行する必要があるが加えて、今後もグローバル経済を担うポジションであり続けるために、日本らしさと世界経済に足並みを揃える姿勢を、より明確にし小国なりに精鋭主義で一点突破をねらうしかなくなるだろう。
日本は、東南アジア諸国とあらゆる面で肩を並べるようになった今、今更アメリカや中国のようなリーダー国になるのは不可能であって、いかに尖った一面を見せていくかは、日本のグローバル化達成の指標になるだろう。