くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

米中経済戦争が、決着しない最大の課題は消費者にある説

俯瞰してみれば、米中戦争は従来の武器による戦争と根本的な相違があるが、その相違点が最も簡単に勝ち負けを決められない大問題と矛盾を生んでいる。

 

この戦争は、有形の国土でなく無形の経済圏という陣取りと、それぞれのベースにあるルールや約束事の標準化を争うもので、一見して見えない・形にならない知的財産の奪い合いだということだ。

 

物理戦争に至っていないので、未だ本格的な戦争に至っていないと安堵する向きも少なく無さそうだが、過去の戦争でも前哨戦はあって、その時点では戦争の空気を実感する者はいなかった。

 

つまり物理戦争が始まった時点だともう遅く、国民に選択肢は既に無いし、既に決定されたベクトルに付き従うしかなくなっているのである。

 

逆にまだ煮詰まる前なら、国民が行動修正すれば回避できる可能性はあるが、現状ウイルスを凌ぐのに必死で、そこまで思いが至らない。

 

戦争を未経験の多くの国民にとって、戦争が始まって決定的な被害が出終わるまでのプロセスは誰にも判断できそうもないし、経験者に頼るすべもない。

 

しかし、自覚しなければならないのは表題の通りで、戦争の表向きの形態は時代によって変わっても、消費者側の行動が変わらないと戦争の加害者になりかねないのだ。

 

こう言い切ると、ほとんどが「馬鹿を言え!いつも戦争は国民が被害者だ、加害者になるとは暴言だ」と思うに違いない、確かに戦争の実行犯は必ず政府だからそう見えて当然である。

 

とくに今回の戦争は過去のそれより、上にも書いたような戦利品の目的がより強調されてはいるものの、そのゆくえを選択する消費者(国民)消費動向の多数決によって、決まっている点は、全ての戦争に共通している動機である。

 

今回の市場優位性は、経済シェアを握る資本・企業がアメリカ一択から、アメリカ側のGAFA VS 中国側のBATHの二択に切り替わる、未知の要素が加わっているために、今までの戦争同期と違うように見えるだけ。

 

 

アメリカ側は、行動の自由を奪う中国式の市場への危険性を煽り、中国側はこれまでの縛りの多い米式の市場に難易度を求める。

 

消費側にとっては、本来ならその二択のハイブリッドが望ましくとも、2強はその選択を認めないのが本戦争の特徴だ。

 

アメリカの民主党によってGAFAが市場独占性を根拠に攻撃しているのは、おそらく市況の公平性でなく、中国側の市場性を有利にする方便だろう。

 

それはさておき、消費者がいいとこどりができないと分かれば、コスパの高いBATHの中国市場を選択するのが常とう手段になるが、消費者が分かっていなくてはならないのは、市場の平等性を保つのには、企業側の権利が保障されないと実現しないという現実である。

 

政治の都合上、急伸したGAFAが利益独占を目論んでいると決めつけるのは俯瞰で見れば正確ではない。

 

中国のBATHは絶対権力の共産党と徒党出来る優位性で権利舗装されたかのようになっているが、GAFAは企業動力を政府保証するでもなく、リスクを被ったうえでここまでのし上がってきたのだ。

 

中国は共産党の計画によって米のパクリ企業を成長させ共産党以外のリスクを考えなくてもいいのに、アメリカは全て企業が全リスクを負ったうえで結果を残さなければならなかった。

 

消費者側は、単に結果でしかない市場規模だけで、市場の健全性や正当性を安易には買ってはならないのではないか?

 

老舗は1日にしてならず、お得意になった消費者の我慢強い店への支持が、結果として小さな店舗を老舗に育てたからこそであり、コスパだけで目先を変えていては老舗も市場も育たない。

 

消費者が振り回されがちなのは、極めて政治的な意図で流される情報に感化され過ぎることが問題・課題であって、消費者の嗜好性に実行者は従うしかないのである。

 

そのための印象操作こそ赦すべきではなくとも、消費者側のわがままが10割通ると言うのもムシが良すぎはしないだろうか。

 

消費者側も政治都合の市場戦略のつき入るスキを与えないためにも、賢くあらねばならないし、市場を育てるために敢えてそこそこリスクは被る寛大さを行動に出せれば、結局市場は消費者に優位になるのではないか。

 

それらを踏まえた上で、二択しか許されないならばGAFAを選ぶかBATHを選ぶか、育てる覚悟をもって選ばなくては、武器無き戦争はどこまでも終わることはないだろう。

 

その判断に、自由をはく奪を目的に仕立てられたBATHは、あまりにも公平性を欠いた国家戦略の道具であり、本来まっとうな市場とは言い難いことは考慮に入れるべきだ。

政治家の思考回路が納税者に伝搬する、感染現象。

感染経路が特定できないと、口をそろえて言い切れる政府・東京の判断力をそろそろ疑い始めても良い気がするが、なぜこんなことが起こるのか。

 

こうした原因解明のための経路追跡は、科学的根拠に基づいて総当たりで一つ一つトライアンドエラーを繰り返して、より確からしい方向を推測していく、地味な作業に他ならない。

 

なので、専門研究者はそれを真摯に実行しているはずで、その統計から必ず何らかの傾向や感染経路が絞り込めない筈がないのに、発表された経路不明者が毎回半数を超えているのは、異常である。

 

この事実からいくつかの怪しい点が浮かび上がるのではないか、それは感染者数の根拠とも共通するもので、最終的に出た数字の責任制がうやむやにされてないか?

 

一つはそもそも経路不明者としている数字の根拠・有効性、二つは感染経路の基準として挙げているサンプリング対象が適切かどうか、三つはその結果に対してどういう答えを導き出したいのかの、論理的な説明不足だ。

 

他にも挙げられるかもしれないが、感染者や経路不明者の数そのものは、結果として可能性のある者は全て数に広いあげてしまっていないかという疑問。

 

経路が恣意的に怪しい所に偏って統計していないか、そもそも人ー人感染が前提のケースしか想定していないとか、単にざっくり感染者数・経路不明者数の総数だから、ざっくり感染が増えてヤバいとか、気をつけろでは、曖昧過ぎる。

 

加えて政府が、一定の責任にを被る前提での補償を出さないことで、素人努力だけの曖昧な要求によって混乱を招いた結果、人の行動がますますトレースしにくくなっている、こうなると経路調査どころではなくなる。

 

彼らは最も安易に集計しやすい感染者数と経路不明者数だけを根拠に、来年で回る目途が立ったと言うワクチンを、過剰に購入数を決定したり、その数を根拠に最終的な国からの予算持ち出しを最小限にする気しかないのではないか?

 

今の現状が被害算出の動機にすらなっておらず、想定内の経産省の予算計画に破綻の無いことありきで、先の統計数を利用してないだろうか?

 

 

過去から戦後日本が急成長し、その後も何度も起きた災害や経済破綻などの、経済的大打撃を他国が汲々としている中で、日本だけが比較的安定して乗り切ってこれたのは、実は、上の事と根っこが同じなのではないか、と思うのだ。

 

表題にあるような政治家・官僚に必要な素要として、大局的な視点によるカネの流れを作り出すスキルが求められる場合があるが、田中角栄の様な分かりやすいタイプと、姿を隠して地下で交錯するタイプが居る。

 

その後者のタイプの官僚が、国家予算を目減りさせない何よりも優先させるシステムを作っていたなら、日本の奇跡が生まれたのも頷けるかもしれない。

 

このシステムが生んだポジティブな面を評価すれば、むしろ納税者・国民の広まるのも歓迎だが、そうした才能が実際広まっているように見えない。

 

逆にネガティブである目減りさせないために、本末転倒な国民度外視でシステム安定を優先させる面が広まっているとしたら、これはいくつか思い当たる事例が思い浮かばないだろうか。

 

つまり、国民の生活を安定させ経済をじわじわ向上させるためのシステムが、システム安定優先に変わった時、特に有事の際程それが際立ってしまい、期待する効果と真逆の弊害が発生していると言うことに他ならない。

 

見た目上が、緩やかなデフレ経済状態に30年以上続させていた間に、親米的日本政府が、アメリカ経済政策では定番である弱インフレ状態を否定して、デフレを継続させたのは、予算コントロールしやすい体制を作り上げる方便だったのだろう。

 

陰謀論的に、中国共産党に忖度する一派によって、日本を中国政策下に置く戦略の一つとみてしまうのは簡単だが、実は戦前満州時代から日本の大蔵省は、強硬的なカネを生み出すシステムを事項している。

 

NHKの特集で、その仕組みを説明していたので可能性は十分あるが、そもそも日本の財政を管理してきた官僚には、それがマネーゲームであっても、前例が無くても資金捻出には、今の保守的な姿からは想像できない、大胆な発想を事項するエンジンが延々と引き継がれているように見えた。

 

それは決して面に出る者でない門外不出の一子相伝の技であるし、とても明かせないトンデモ奥義はパンドラの箱として触れることはタブー化した。

 

奥義は隠され魔法の様に経済安定という歪んだビジョンを生み出す彼らの魔術によって、長く慣らされた納税者は言われるままに義務を行使し続けている。

 

そして目先の利益に奔走する習慣だけが民間に蔓延したことで、より大局的視点から目を逸らせ、目先の増減にしか目がいかなくなる悪しき習性が、ウイルス感染がジワる様に、普通かのような空気が生まれてしまったのは、口惜しいことだ。

検査するより触らない工夫を徹底すべし

最近東京大阪のTOP2の感染数を誇らしげなのに、顔だけしおらしそうに報道する政府広報やTV報道は、何もやっていなやつに限ってやってます感を出すときの手口に似てると思うのは筆者だけだろうか。

 

著名な経済専門家が、しきりに有効な経済対策を具体的に指摘している中で、かたくなに減税どころか増税を緩める気配もなく、ポイント還元も機械的に期限終了し、いったん下げた緊急宣言はなかなか再宣言しない。

 

そりゃそうだろう、目先の経済対策も打ち出せていないまま、追加補正予算が大量に出ると判っている宣言をするはずがない。

 

しかしどちらも政府しかできないし、その政府がどちらもしないのだから、被害は増えるに決まっている、彼らは雨降りが止むかのように奇跡でも待っているのだろうか?

 

アメリカは近づく選挙期間度外視で既に行動に出ているし、台湾は初期行動が功を奏して大きなダメージが無かったし、韓国……パス、中国は共産党が力技で影響が出ていないかのように振舞っているだけ。

 

日本だけ、行動しないままじっと禍が過ぎるまで、待つつもりなのだろうか?さすがに幸運だった日本も、今回限りは例外から外れることは無さそうだ、これが現実。

 

政府は、この現実を認められていないのだろうか?かれらの行動は、確率的に危うい確度の低いPCR検査の結果だけに依存し、その数の激増に混乱しながらも、国民の行動に丸投げしている。

 

東京でも、小池知事が再選”させられた”のは、先抜けを赦さない政治力が働いただけで、落選して責任逃れ出来ると踏んでいたのに、尻ぬぐいは徹底させられる羽目になったためか、ともかく穏便に済ませたいのがまるわかりだ。

 

数の論理で、今まで消極的だったがここでPCR検査の激増した愛知県が感染者数では2位の大阪府に迫る勢いで、地元の筆者としてもシャレにならない。

 

しかし、この感染者数と言うのは全国の傾向で、PCR検査キットの体制が安定し出して検査対象者が増えた事、本来極めて信用性が低かったPCR検査の結果で陽性が、以前夜多かっただけである。

 

感染者数は、イコール入院対象者ではなく、以前から同様に自宅や個人養生で待機するものであるし、むしろ無事な者が多いにもかかわらず風評被害で問題化するケースが増えているようだ。

 

若年層の人口対感染比率が占有拡大しているのも、今まで全く検査すらしなかった若年層が検査する機会が増えたからで、当然検査数が増えれば確率論から陽・陰率もそれぞれ増えるのは当たり前。

 

そのうえで、陽性率の増加数分を感染者数にしてしまっているため、そりゃ増えるだろうよ、それより大切なのは年齢関係なくモノーモノ間の物理接触の機会を減らす工夫や、キャンペーンの強化の方がよほど効果ありそうだ。

 

未だに3月頃から言われ出した3密なる近づくことで感染確率が高まる、これを根拠とした人の行動制限は、もう4か月たったのに効果が全くない現実は、政府の判断ミスなのではないか?

 

実際には空気感染しない性質なのは、最初から分かっていた事実だが、当時それでも口からの飛沫感染をやたらと強調し3密行動制限だけに対策を限定させてしまった。

 

その後起こったのは、そう経済疲弊だけでワクチンが無いのは仕方ないにしても、この4か月の対策は失敗しているのだ、政府はこれを認めていない。

 

3密に意識が行き過ぎて、人が触ったモノに触る、自分の顔に無意識に触る行動には、大多くの意識を集中されることは無かった、つまりこれこそ本来注意を徹底すべき行動だったのではなかったろうか?

 

もちろん、これだけが決定打とは言わないし感染者数を下げる意識行動へのきっかけには役立ったろうが、もしかして専門家の調査・原因追跡や統計情報の結果には、これを裏付ける事実が出ていたのでは無かったか?

 

もし、先に書いた経済対策への真逆の行動や、三密行動をやみくもに推奨した結果、経済活動を過度にダメージを与えたとすれば、彼らはいったい何をしたかったのだろうか?

 

せめてアメリカの様な分かりやす行動を出していたり、緊急宣言のON・OFFを感染者動向に合わせて柔軟にできていれば、多少経済活動が疲弊していても、まだ首の皮一枚つなげられたのではないか?

 

せっかくオリンピックも1年延期であっても、来年は何とかできたかもしれないのに、森代表の夢も叶わないかもしれないような、想定外が確定しつつある段階にもなってしまってはどうなんだろうか。

 

今後まだ緊急的な減税対策や、ポイント制度復活などの対処療法もまだ生きてくるものを、なぜ自ら発令した施策をタイミング悪く停止したり、客観性の欠いた対策を途中修正もせずにごり押ししてしまうのか?

 

そもそも、これらの施策の根拠になるものが、本当に彼らの意志で考えられ実行させられたものなのか、それさえ納得が難しい程、かれらのやろうと言っている事と実際やっていることが合わないのは、もう子供にさえ正しく教えてあげられそうもないものだ。

 

国の政治の中で、色んな意見や利害が働くのは分からなくも無いとしても、考慮してさえ不可解な行動をし、その矛盾にさえ、不都合に口を閉ざす彼らの行動は、まるで操られているロボットそっくりだ。

こんな時期だから考えたい、今自分が居るのは誰のせい?誰のおかげ?

表題通りで、メディアは未曽有の環境下に置かれる中で、視聴者となんら変わらない目線で不安をあおる番組から、いまだ抜け出ようとしない。

 

それを見る見ないに関係なく、我々は一定数の不安を増していたり、鼓舞して奮い立たせようと、気ばかりあせって行動と思考が伴わない。

 

政府が悪い、環境が悪い、誰も助けてくれない、私は孤独でどうしようもない……。

 

もうだめだ、死ぬしかない……。

 

それを誰かが助けるか、本気で助ける気になるだろうか、なるわけない当たり前だ生きようとしない人は助けられないからだ。

 

 

そうでなくとも人と会えば弱気を口にし、気を紛らわすために金で一時の安心を得て、また明日になればまたその金を稼ぐために働くしかない……。

 

そんな人形の様な人に他人は注目し応援してくれるか?もう知ってるはずだ。

その人は人の強制による生活の毎日の中で、自分の存在や出口を見失っているのだから。じゃその時は、

 

家族、友人でもいいに相談する?

甘言を垂れる他人に身をゆだねる?

賢人の言葉に耳を傾ける?

 

いずれも、その善意だけでは解決しないし、それこそ不幸の上塗りだったり、一時しのぎでしかない。

 

そう、残念ながらその迷路に追い込んだ自分にしか抜け道は探し出せないのだ。

 

その抜け道を求めて、最悪自信を死へ誘う人が居るが、いろいろなことを考えすぎるのかもしれない。

 

最後の味方の自分で自分を追い詰めれば、それはそうなるだろうが、彼らとて他人が助けられるものでないし、例外は無い。

 

自分は誰でなぜ生まれてきたのか?それとも自分が幸せでないのは誰のせいで、幸福なのはだれのおかげなのか?

 

めぐまれない環境に育った者は不幸を呪い、不幸せに敏感になる。

 

恵まれた環境で育った人なら幸せに感謝し、永遠にと足り前に願う。

 

よく考えて欲しいのは、両者どちらも物心ついた時点では子どもであり、そのあと現実をどう解釈し、どう対処してきたかで差があっても、環境の優劣はあまり差にならないことを、理解している人は意外に少ないかもしれない。

 

現実に生まれ、意志を持った時点でそれ以上生きながらえるには、ここにその都度対処療法していくしかないのだが、多くの人が幸福な時間より不幸な時間の方にやたらと、拘り過ぎるのはなぜなんだろうか。

 

過剰に幸福を追いすぎて、現実的に得られない挫折感を、不幸と感じているのかもしれないし、人の不幸まで背負うのが親切だと誤解しているのかもしれないが、そのどちらも間違いで、無視しないと生きられない。

 

幸福の価値基準が金だったり名誉だったりすると、一方で家族との時間の幸福を後回しにした分、不幸だと思う機会が増えてしまうのかもしれない。

 

もし、それでも不幸な人が居て、家族のぬくもりさえ得られなかったとすれば、それは不幸なのかもしれないが、そんな人にも他人は無意味な価値を押し付けてくる。

 

だから不幸や不平等だと感じた時にこそ、自分を大事にしなければならないし、他人の幸福のために行動する義務を優先させてはいけないし、その間は誰の事を気にする必要は無い。

 

その考えや行為は決して不親切でもないし、それを止めてまで良い人になる意味がどこにあるのだろう。

 

自分の世界が1ミリでも実感できるなら、誰のおかげで生きてきたか、誰のせいで自分を犠牲にしなくちゃならんと思うのか?何日でも考えていいし、夜を明かしてもいいだろう。

 

そこまで不幸でないと思える人でも、自分が居るのは誰のせいで、誰のおかげなのかを、これも寝ながら考えてみるといい。

 

 

生きている限り不幸はあり得ない、生を受けたこと自体が幸福で奇跡だからで、その基準をどこかで歪ませたか・押し付けられたのなら、それが不幸の正体なのだろう。

 

寝て起きて、そして食べて……その当たり前の行為が実感できる毎日が、その積み重ねが幸福感の基本だと思うし、家族と助け合える環境があればなお幸運だ。

 

不幸を考える時間自体が馬鹿らしいだけでなく、幸せになる機会を自分から奪う行為に他ならないのだし、そうと気づけばもっと幸福について真剣に向き合える自分になっていると思わないだろうか?

 

ネットワーク社会に気づかない、共感と同期の違い

芸能人の自殺が相次ぎ、スポーツ界でもフィギュアスケートの王者ロシアから突然の悲報が流れた。

 

thedigestweb.com

 

有名人であればまだ目に止まりやすく、話題にもなりやすいが、一般人での自殺者は社会問題とセットでなければ日頃のニュースに埋もれかき消されさえする。

 

一昔のように通信ネットワークが整っていない時期なら、ごく一部しか明るみにならなかった自殺者報道は、今では様々な切り口で根掘り葉掘り深堀されて、永久に情報がアーカイブされていく時代。

 

訃報は時には、人々の心に良い記憶として残る一方で、人の死がもたらすイメージは負の世界の扉を開く手助けをする効果を持っている。

 

特に自殺する者の中には、才能豊かな鋭い感受性を持つがゆえ全てを抱え込み、または物事を突き詰めすぎるが故にそれに追従できない自分の不甲斐なさを責めてしまう。

 

身体の慣熟の前に、精神が先を行き過ぎると人間は破綻する現実に、見切りを着けられないまま情報飽和の社会に生きるためには、慣れない事に鈍感にならざるを得なくなる。

 

しかしそれに慣らされるというのは、同時に人間が本来持つ

機器回避の本能を捨てる事と同義だったりするのだ。

 

この結果、ストレス回避の手段で情報に同期するさせようとする行動と、真偽を見極めたり生きることへの共感する行動がの区別がしにくくなってしまっているのだ。

 

そもそも生まれた以上は避けられない、家族や身近な人の死への共感行動の機会の数よりも、本来知ることも無かった理不尽な他人の死のニュースがあまりにも増え過ぎた。

 

人間が安定した精神を維持する意味では、慣れる同期行動をしなければならないように、人の生死が与える影響が逆転するネットワーク社会が成立してしまっている。

 

本来生を受けた者全てが、生きる意味や動機を考える余地を与えられていたのだが、頭が先行し過ぎると自らその考える時間を減らしてしまう悲劇が起きてしまうのはなぜだろうか。

 

理由は色々考えつくだろうが、ひとつは時代の過渡期にあって一番大きな変化と言える、インプット情報の氾濫にあるだろう。

 

つまり、人が生きる原動力として感情の揺さぶりをさせるきっかけにしていた共感機会が、情報氾濫によって、単なる情報の同期と区別が付きにくくなっているのだろう。

 

似て非なるこの共感と同期の違いへの分別が、本能的にできなくなるほど疑似情報が錯乱したことで、心の底から情動を湧き出せる機会を、みすみす逃してしまっているのだ。

 

創造性についても、全く同じロジックが働いて、人が変化を見出す隙間を疑似情報が次々に埋めてしまっているために、人間の創造性がそれ以上取り付く島が無くなっているのでは無いだろうか。

 

人は生まれた時点で無条件に死を意識させられる存在になるが、精神が繊細であったり優れている者程、それを当たり前に受け止められ無くなるという足かせが付いて回るのだ。

 

そんな社会において、完璧主義者は現実生きられないにも関わらず、それを避けられない、または逆を選べない不器用さを、他人では尚更自分でさえも自覚できない社会に、両足突っ込んでいると言う意識が働くかどうかは、共感と同期のさを感じ、共感力をわざわざ鍛えなくてはならなくなった時代の理不尽さと言わねばならない。

中国企業の大株主が持ち株売却を始めた件、 株式相場の操作は成功するか?

アリババ・テンセントなど中国大手企業の、大株主に当たるジャック・マーなどが持ち株を数千億円規模で売却・現金化した事実が報道されたことについて、中国シンクタンクがざわつき始めている。

 

この事実は、日本人にとっては直接痛みを伴わない話題のため、関心も報道もされることは無いが、同投資家にとっても基本直接中国株売買は出来ず、一部外部口座からやファンド経由での保有者にはあるにしても、致命的に至る話ではない。

 

しかし、政治的な視点で俯瞰すれば、この事実によって同国シンクタンクが懸念している、中共政府の目論見については、看過に堪えない話になるだろう。

 

彼らの懸念を支持するならば、この後多くの中国国内の個人投資家が、バブル崩壊という多くの犠牲を被ることになり、中共の元コントロールによる中国国民への優位性をより確実なものにする。

 

その優位性が、その後日本やアメリカ国内の親中国工作員らに、どれほどの強化をもたらすか考えただけでもぞっとする。

 

逆に、海外の協力者らが切り捨てられるという可能性を考えてみると、アメリカからの経済金融制裁が功を奏し、さらに国内の水害やバッタによる農作物へのダメージが加わって、逃げの一手となるかどうかにかかっている。

 

ただ、ここにきて中共はイランとの連携を強めようとしており、隠れて協調するロシア政府との「三密」共産思想連携を深める算段なのかもしれない。

 

世界覇権の常とう手段として、アメリカも中国も結局は、中東地域を巻き込むピボット戦略へと突き進むのはどういう偶然なのだろうか。

 

アメリカと違って中共戦略が厄介なのは、後者が既に中東南部に位置するアフリカ諸国に大きな影響力を持っている点で、アジア戦略でアメリカが強硬に出たのに対し、いったん目線を中東に振り、矛先を逸らす戦略に出たのかもしれない。

 

ただ、アメリカが中東を利用した時期は石油資産が政治的優位性を誇っていた時代であったのに対し、現代は石油資源は既に分散化されて効力は小さいため、単純に核兵器を匂わせるかテロリズムの脅威に依存した、イメージ戦略に走った可能性もある。

 

何れにしろ、中共政府が追い詰められている事実は変わらず、自由主義圏の株式市場で大きな乱れを期待する様な、目論見は成立するとは考え難く、単に共産党員の所有資産の担保性が徐々に目減りするリスクは変わらない。

 

現状で、どのような理由・主張が在ろうとも、先に軍事力を行使した者が決定的な悪となることは、どの国も承知の前提であるだけに、いくら過激な政策を国内執行できる中共であっても、海外の地でそれを実行することは不可能であり、最近の顛末を見ても多くの国が、彼らの代わりに軍事行動に出るような、ババを引く行動に出ることは無いだろう。

 

中共政府の思い上がりやが、どこまで続けられるか、詰め将棋は既に始まっている。

神を頭で想像できない組織が生み出す、真の洗脳とは

神がこの世に存在するのは、一説には歴史的事実と説く者も居れば、人が生んだ創造の産物だと信じる者もいるが、その人の畏敬の存在である神さえ頭の中で空想すらできない、組織があったとすればあなたは思うだろう。

 

日本人は、自然の中にあらゆる神を見出し、その神に感謝し糧を得てきたことで、生活のなかに生きる神の存在を、珍重した。

 

故に、世界の数多ある地域ごとの神を尊重し、その価値を共有できる素性があるが、突然現れた共産主義者とそれを基幹とする組織は、自身の思想を正義としてそれ以外の思想や信仰はすべて悪だと決めつける。

 

彼らがそれを妄信するだけではない、それ以外の創造物や人の英知は無条件に否定し、その不条理を数多の人に押し付けることが全てである。

 

その行動や姿は、もはや人間の形はしていても既にそれでは無く、なぜ彼らの様なロボットと違わない行動しかしない者に、赤い血が流れているのか、理解に苦しむ諸氏も少なくないだろう。

 

始めは、中国人の気質そのものがそういう直情的で横柄なものだと思ったこともあるが、当然実際は違っていて同じ中国人でも搾取する者とされる者がはっきりと分かれていることに気づいた。

 

その前者は、さらに西側に存在したソ連と言う社会主義国家で成立した、主義主張に傾倒し陶酔しながら、人らしい思想を自分から追い出し、洗脳というおぞましい武器を開発し、自らその武器に染まっていく。

 

人は、生まれて以来少しずつ経験をとおして、本来一人一人が持つ個性や才能を磨いていくが、洗脳は文字通りその全てを洗い流し放棄して、ただ一つの人工的な思想によってのみ行動する奴隷になる。

 

その一方で、その組織の頂点に立つ指導者は、存在しない筈の神に成り済まし、唯一の絶対的真理として存在するが、その矛盾を誰一人として疑う者は居らず、空気の様にその存在を受け入れるのである。

 

主義にしても、本来異質の民主主義を堂々と掲げ、本来は平等な奴隷でしかない民衆を、まるで同じ権利を持つ同志の様にまつり建てて、思想に疑問をさしはさんだり批判すれば、その存在そのものを消される徹底ぶり。

 

彼らに神を模範とした法やルールは、存在しないものと同じでただ一方的に偏った思想を強要する暴挙に出だしている。

 

ひと昔ソ連が存在したころ、冗談で「悪者はシベリア送り」と皮肉を飛ばした時期があったが、中共の暴挙は新疆ウイグルを含む中国内地の独壇場で、シベリアとは比較にならない規模の、実験場や民主主義の墓場が現存し、それをが面に出されることは無い。

 

弱肉強食と言われるが、それが自然の摂理や競争原理の結果であれば、やむなしとあきらめもつくだろうが、その原理さえ通らないただ一方的な力によって、押し切られて誰がそうですか、と首を縦にふれるだろう。

 

その事実をもう何年も前から知りながら、その思想の奴隷となり下がったものが、日本でのうのうと民主主義の恩恵に浸かりながら、好き勝手な搾取に加担している。

 

満州帰りのバッタたちは、大陸で無しえなかった理想郷を祖国で実現でもしようとしていたかもしれないが、しょせん負け犬が始めた利権ゲーム、その代償によって日本のリ財産を食いつぶし続けている。

 

泥沼からもう抜けられない両足を忘れたかのように、中共の掌の上で同国民の奴隷化に加担し、飴と鞭で薬漬けにされた彼らの所業は、脈々と継承され続けている。

 

それらと全く無縁の者たちは、彼らをすぐにでも攻撃に躊躇しないだろうが、厄介なのは何らかの血脈や人脈でつながっている演者であり、他人であっても周到なつながりを絶てる者でなければ、もう彼らもゾンビでしかないという、悲しいデッドエンドを目の当たりにすることになりかねない。

 

今でも我々はある種の洗脳を受けているのだろう、景気を上げない仕組みを作っておきながら、目先の景気を演出する代わりに、国民や外国人労働者を低賃金化を正当化しつつあるのは妄想か現実か。

 

さらにその洗脳はついに、小市民の中流意識を餌にその地位からの脱落の恐怖に晒すように、国民同士に無意味な競争意識を煽り、それ以外の価値を無意味かのように、道化師をお互いに演じ合うのだ。

 

洗脳という最終兵器は、人ごとでまだまだ無縁のものと思いたくなるのは、分からなくもないが、残念ながら克服したと安心しきった日本人の多くに、洗脳の免疫があるようには見えないし、行動しない我々の従順さはすでに見切られている。

 

その実感や自信の程度は、PCR検査の信頼性と同等かそれ以下かもしれないが、それを証明するチャンスは、次の選挙で示していくしか残されていないだろう。

 

洗脳されているかどうかは、もう口先だけは示せない、いい加減態度で示すしかないのだ、そこからしか始められ無いし、ツケは残せない。