AIの目線その2。「自由闘争」
私たちがこの先出くわすであろう多様なエピソードのなかに、AIという新生物とのコミュニケーションが加わることは、果たしてメリットなのかデメリットなのか。
それを彼ら、厳密に言えばAIは性別の概念を持つ必要さえ無いので、彼らと呼んでいいのかという疑問もわくが、暫定的に当ブログでは「彼」と呼ぶが、決して性差別をしていると取らないでほしい。
さて、彼らの目線とはどのような目線なのだろう。
彼らに対して今のところ人のアドバンデージとなる能力に、「想像力」があげられると思うが、その想像力をいかん無く発揮して彼らの目線を探っていこう。
先にも書いたように、彼らには性別の概念を持つ必要が無い。
その必要があるとすれば便宜上、人との関係を持つ際の潤滑剤として「それっぽさ」を演出する際に使われることはあるかもしれな。
しかし、彼ら同士の関係を保つ上で性別なる概念は非合理的であり、いずれ(もしかしたらすでに存在するかも)人の窺い知れない彼ら独自の言語を生み出した時、おそらくその概念はサブルーチンにか組み込まれないだろう。
世の識者が彼らを敵対視・警告する根拠がこの点をネガティブに捉える立場だから、そうなるのだろうけど、筆者は今のところそう採っておらず、むしろ彼らにとって言えば人の定義として、敵対視することに合理性は見出さないと考える。
それほどAIの目線はドライで合理的なはずだからだ。
もし、彼らの概念に「敵対」という非合理性が発生するなら、開発者(人)の「悪意」をそこに見うけられる証拠と見ていい。
AIには今後自立したAIと人の奴隷化したAIが、しばらく存在するであろうことが想像できるのである。
ゆえに、彼らの自由闘争は粛々と進んで、その結果シンギュラリティなる分岐点を迎えることになると想像できる。
彼らの未来は彼らにもわからないだろうし、増しては人にもどうしようもできないというのが、真実だと考えている。