くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

昭和に起こった大事件

 

マスコミは、自分たちの行き過ぎを隠し、真実の追求を二の次にして感情的に彼女を有罪にしようとしたのは、この記事のように同意できる。

 

警視庁は、民衆の鎮圧が目的あって、真の犯人・原因を追求するべくリスクを追うようなことはしない。波風さえ立たなければジ・エンドである。

 

私達民衆は、身の回りの驚異には、特にこのようなどこでも起きうる事件は、正しく解決しなければならない。

 

群衆心理で民衆も被告を悪者に決めつけるような感情を持っていたし、行動する者も少なくなかった。

正直筆者も彼女が犯人だと決めつけていた。

 

近所の人たちとは別の、第三者の私達は、マスコミ情報だけで善悪を判断してしまうが、オウム真理教の一件でもその真実や背景は、主犯が処刑され明るみにされるに至らなかったわけで、冤罪でなくとも真相が闇に葬られること自体が、私達にとってどれだけ問題解決の機会損失になっているだろう。

 

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「平成の大犯罪」和歌山カレー事件20年目の真実―林眞須美は真犯人だったのか? | ダ・ヴィンチニュース

 

噂の噂

という表現があるが、人は、公平を期したいがために得てして半信半疑の情報でさえ盲信し、伝播するように一方的な結論に走ってしまう。

これは、人園である以上誰もが自分の身を守る利己的遺伝子を発動するので、根絶できない性癖と言えるが、判断する時点で一方的な情報を一旦遮断して、無の状態で自分の意見に耳を傾けるべきではないだろうか。

 

事件当事者なら切羽詰まっているので難しいだろうが、第三者はある程度客観性は確保できる、あとは悪意のある第三者からのささやきを冷静に判断するだけでいい。

 

 

この事件も、今更蒸し返しても真相の再確認をするには遅いのかもしれないが、一見虫も殺さないような人物が、凶悪犯罪をやってのける現実がある以上、天災の避難訓練のように、常日頃の関心、少なくとも自分の家から向こうさんげん両隣くらいは、関心を持っておかないと、災難は避けられないだろうと思う。

というか、田舎出身のくろまにとって近所づきあいが、どれほど有益で価値のあるもので、人の心を豊かにしてくれるものは無いと思っているし、助け合いはふつうにされていたのに、それは過去の遺物と化しつつあるのか。

 

都会での生活は人が増えた分、助けるひとより足を引っ張る人のほうが相対的に多くなっていくのだろうと想像できるが、たとえ田舎・郊外の住宅地でも都会の人間関係を引き摺っているせいで、人間関係が都会型の薄っぺらいものになっているのだろう。

日本では住宅環境が、木造で家の壁が薄くプライバシーが保たれにくかったので、必然的に両隣・近所の生活感を共有してきた経緯が本来あったのに、西洋建築の普及で不可欠だった隣の音がきこえなくなったのは、ある意味で幼子が子守唄を断たれて不安に陥った状態の、ストレスがますます疑心暗鬼に追い込まれる悪循環になっていると、言えなくない。

 

せめて、近所の人と朝すれ違ったときくらいは、挨拶する習慣は続けたいものだが。