くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

ネクラな話題多くなるねー(TOT)それでも、いじめの根っこの話。

すでに成人のくろまにとって、その時代と今青春真っ盛りのこどもたちとは、GG(ジェネレーションギャップ)が相当広がっていて、今更こどもたちのリアルな問題を語っても、追いつけないと嘆くこともあるが、あえて踏み込むのはいじめの話。

以下の記事は、仮想コミュニケーションの場が、いじめの温床や隠れ蓑に利用される悲劇と課題を取り上げている。

 

toyokeizai.net

女子中高生「インスタいじめ」の執拗なやり口 | 子育て | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

いじめのやり方を昔と比較すること自体意味が無いと言われるかもしれないが、それは生活習慣の変化や少子化、何よりあらゆる生活の利便性向上、それと共に自由時間が増えたことは、比較に値すると思う。

ただ今も昔も、そしてこれからもいじめの本質は変わらないだろう、それが人の多様性を赦せない気持ちの、ゆとりが減った時にいじめの衝動がおこるからで、ゆとりを見失った者の目の前にたまたま居た者が、そのはけ口になっている。

人は、悲しいかな心が不安定な時には、自分を少しでも正当化しようと、今自分より弱いものを貶めて、相対的地位向上を衝動的に起こすからだ。

 

いじめが厄介なのは、この感情がいじめの主役に自覚しにくくなっている点で、更に主役が影響力の強い者だと、客観的に判断できるはずの脇役達も主役に引っ張られてしまう、その集団が多ければその分隠されてしまう。

その段顔で、更にその外に居る観客は文字通り”傍観者”となることで、目の前のいじめがまるで普段の出来事のように見てしまう怖さがある。

 

情報の氾濫によって、そもそも善悪を示すべき大人自体が迷走しだしたことで、こどもも自覚が曖昧になり白黒の判別ができなくなっているのは、昔のケースとは変わっているかもしれないが、いじめの本質は変わることなく、むしろ無くそうとムキになるほど無くならないだろう。

 

高齢の大人世代のこども時代には、良し悪しは別にしても道徳教育がその判別の目安とされていて、戒めの効果があったが今はどうだろう?

人の行き過ぎを戒めるものは、時代によって変わってきたものの、その本質である人の限界を悟らせてくれたし、行動のものさしになっていたと感じるしまた、それを素直に受け入れてこれたと思う。

 

いじめの本質は無くならないだろうが、それを減らそうと努力する一方で、事実を覆い隠して無かったのようにオブラートでくるむ行為も常習化した。

情報の氾濫で、判断すべきことが増えたと誤解し自ら余裕を失ってきた現代の人々は、いじめを認めて反面教師とせずに、手っ取り早く無視することで、他の関心ごとに気持ちを割り振ろうと、躍起になっている。

 

こんな大人の姿は、吸水性抜群のスポンジのようなこどもの心にそのまま吸収され、一度染み付いたらそう簡単には絞り出せなくなる。

こんな大人の姿を彼らに見せないようにするのはほぼ不可能だし、好奇心旺盛な彼らにはむしろ逆効果で、見せた上でこどもにどう諭していくか? 慢心する人の心に”たが”をはめるすべを学べていない大人にとって、とてもハードルの高い課題だと思う。

 

ただ光明があるとすれば、大人は威張らず素直に情報過多時代のネイティブである子世代に情報の海の渡り方を、学ぶべきかもしれない。

年齢を重ね経験豊富な面はこどもに教え、新しい時代の生きるコツはこどもからだ学ぶという共同作業は、これからの人が追いつけない速さで変化・乗増する情報の波に飲み込まれないための最善の方法だと思う。

 

波さえ乗り越えるすべを体得すれば、いじめを無視したり無かったことにしなければならなかった、心のゆとりを取り戻せ直だろうか?

そのための大切な第一歩は、昔は当たり前にあったコミュニケーションの復活にあるのではないか、

昔のように当たり前では無くなった情報交換の寸断が、情報の乱立で混乱したことで起こっているこの皮肉な現状は、

逆に人の判断力を下げ、

疑心暗鬼を助長しているのだ。

 

大人はその事実をまずは受け止め、

こどもにそれに対処するすべを学び、

自分なりの取捨選択で心のゆとりを作り、

判断力を上げてこどもに還元する。

 

このサイクルによってコミュニケーションは機能し始め、

交流によって、人はますます人らしくなる。

 

その結末にこそが、いじめの根源的減少につながる。

 

とまあ、理屈はそういう事になるとが、人は揺らぐ生き物だけに、AIみたいに有言実行は容易ではないのも現実。

 

それでも仮説や筋立しながら一歩一歩、

向かい風に押されては向かって進みたい。

失敗は一度や二度は赦してもいいじゃないか!

 

結局それしか、これからの時代に人間の価値を示す術は無いのだしね。

それで、気持ちが少しでも和らいだら、儲けモンじゃない?

 

 ありがちな話で締めますが、

いじめにかかわらず人との気持ちの差を感じたら、

「〜すべきです!」

というよりも、

「〜でいいんじゃね?」

くらいで、あえて気持ちを曖昧にする処世術はマストだと思ってます。