男子たる者、自由と常識の間の苦悩
公序良俗について。
風俗と呼ばれる、性ビジネスへの認識や節度のとり方は、法やや宗教観または国によって様々で統一することは不可能なもの。
日本で言う常識の範疇は限られることは重々承知で言えば、
日本において公共サービスエリア内では、たとえプライバシーの自由や秘匿性の権利があるとしても、他人の目に触れる可能性がある限りは、
自由であってはならない情報はあると思っているし、自分ならしない。
この選択は、人にどうこうといった強制力は示せないが、日本人が日本国内で居る間くらいは、こういうTPOを考えた常識がまかり通ってもいいと思う。
が、しかしだ。
世の流れに、そう簡単には従えない「何か」が男にはあることも、
男である筆者には解っている。
社会性と相反するこの矛盾を、
単に一刀両断出来ない立場でもあるのは、悩ましい。。。
昔、ロマンポルノなる芸術志向のポルノ映画があって、それ専門の映画館があったのを覚えている人の数が減りつつあるが、ネットのネの字も思いつかないような時代に、男子の欲望を満たす中でも、オープンにしやすい選択肢として存在出来た。
AVがポルノ映画に勝った理由 名作を紐解く (1/3) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
映画娯楽の衰退のアオリで消えていったが、実際に劇場が存在して老若男女が否が応でも目に触れた時代は、性におおらかだった。
情報のデジタル化で、激変した秘匿性は、
おおらかで素朴だった日本人の感性を強制的に、
選択肢を狭めさせ、
袋小路に追い詰めた。
自宅でコッソリ「エヘヘへへ……」するのは今でもできるが、
公共の場でのそれは、今はもう出来ない。
男の性の楽しみ方は、肩身の狭い立場と同じくして、
男の不器用さゆえの悲しい結露で片付けられていくのだろうか?
この先、反駁し自由を勝ち取るべきか?
ジェンダー時代に向けて、萎えて行くべきか?
そもそも生物学的に、男は弱い生き物なのだ。
男の自由の未来には、逃げられない壁がある、現実。
その現実を、男なりに咀嚼できているか、そうでないかは、
男に生まれた以上避けられない、
遠大なテーゼとなる。