くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

金曜ロードショーの定番「風の谷のナウシカ」

今や、日本アニメーションの金字塔にまでなっているこの作品。

紹介記事にも書かれている通り、結構未完の部分が多かった作品。

 

初期アニメブームの現役世代のアニメファンなら、アニメ雑誌の元祖「アニメージュ徳間書店)」の購読者も多かったと思うけど、ナウシカはこの月刊誌の連載として始まって、スタジオジブリの創設者の1人鈴木敏夫氏が、当時思ったような仕事につけていなかった同創設者でもある宮崎駿氏の、才能を形にしたい思いでマンガ連載でスタートした、と記憶する。

 

cinema.ne.jp

『風の谷のナウシカ』を深く読み解く「5つ」の事実 | シネマズ PLUS

 

 アニメージュ創刊当時のアニメファンにとっても、宮崎駿氏は注目され同誌で積極的に彼の経歴など紹介記事が多く掲載されていたが、当時それを担当していた人が鈴木氏なのは知っていたが、彼は根っからの宮崎推しの担当者で、当時不遇だった宮崎氏をどうにかメジャーにしようとしていたそれが、思い余ってジブリ創設の原動力になったのも、購読者なら知られた話だった。

 

アニメ版ナウシカには、当時アニメ黄金期のアニメーターが宮崎氏によって選抜され、作画・美術・原画担当に名を連ねたが、アニメのエンドタイトルを皿のようにして見ながら、

「おお、金田(伊功:かなだ・よしのり)さん!」

 

とか、お気に入りのアニメーターの名前を見つけては、悦に浸ったものだ。

 今のアニメオタクがお気に入りアニメーターが担当した、カットパートを探し出して萌えるアニオタの性はこのころからも変わらなかったのだ。

 

話はナウシカに戻るが、エバンゲリヲンの庵野秀明(あんの・ひであき)氏も居たし、彼の宮崎氏への傾倒ぶりは有名だが、当時のアニメファンの思い入れは彼と同じくらいのめり込んだ人が多かったことからも、アニメ黄金期と言っていい時代。

 

ナウシカもそうだったが、宮崎クオリティ(筆者独自表現)にもあるように、同作は彼の制作クオリティの基準に合わなかったと宮崎氏は嘆いていたが、当時のアニメ制作クオリティは、技術的に言ってその程度でしかなく、今見ると作画技術は統一性が無く、拙いものに見える。

宮崎氏が原作マンガを最後まで書ききったように、鈴木氏の「宮崎駿」マニアのアツイ信念があのアニメを作らせたし、マンガ連載も完結できたのは記事の通りで、マンガ連載が多くのアニメファンが原作の結末を知らずに年齢的に「卒業」していたほど、異例の長期に渡ってしまったし、最終巻の単行本化は相当遅れていたように記憶するが、エバが放映された頃に遅れて読んだ記憶がある。

 

結局宮崎氏が関わったアニメは、ストーリーボード・演出担当、監督でナウシカ未来少年コナンくらいまでは、絵としてのクオリティが低くとも宮崎氏の関わった作品は宮崎ブランドとして、今でも語り継がれるほどアニメ品質をディズニーも認める程に、押し上げた。

そのアニメへの思い入れの強さを育んだ「アニメージュ」は、今はもう手元に無いが、創刊号から前期くらいまでの各刊は、付録もふくめ今でも永久保存版級の情報価値を持っていると思う。

 

そのくらい中身の濃い時代だったし、その時代があって多くのカリスマが現れる素地になり、今のアニメや、日本ブランドとしての地位がある。