くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

「発信側の権利」と「閲覧者の正義」自由の女神はどちらに、微笑むのか?

放送禁止用語、それに類するワードと表現に関する意見として。

これは、あくまで大手メディア側の都合とそれに沿った基準で決められているので、この基準は、個人を含めそれぞれの書き手が倫理と道義をもって個人責任の範疇で基準するものではないか?

 

観たいもの・知りたいものがある限り、提供者は現れる。

しかし最低限国単位での法・規制はあって制御されている社会のメディアの自由度の境界を、常に模索する毎日。

 

 

そもそもこのブログは「過激表現の実験」と表現の自由を優先させる目的があったが、躊躇なく書きなぐると結構アウトな表現となるし、かと言って修正すると書く意味を無くすだけに、自分的にはさじ加減が難しい「目の上のたんこぶ」的ブログ。

 

始めるきっかけは「自分用の覚書」から始まったもので、

自由な表現方法の実験も加味し、別テーマで書いているのと同じブログを利用している状況。

 

三者にとって、関心がなかったり、感情を害したり、そもそも見る機会さえ無かったりで、全く反応が見られなかったりするのは承知で書いているが、おもったより閲覧されているのは、意外だった。

 

ありがとうございます。

 

最近気づいたのだが、このブログには「イイね」マークを非表示にできる機能があるらしく、ほかのブログ記事で非表示にしてみた。

 

このブログは意図からして、どちらかといえば「支持」より「不支持」の意見を知りたいところで、FBでもそういう機能はないのでどうしたものか。

不支持を計りたいブログというのも、本来意味が無いと思う人が大半だと思うが、

無料ならではの、

「いい加減さ」

「無責任さ」

「隠蔽性」

をなんとか、あぶりだせないものかと考えたりもする。

 

書く側の責任が、第一義に問われるシーンは捨てるほどあるのに、

読む側、意見する側の姿勢を問われることは、まず無い。

 

この一方的な優勢こそ、

ある意味自由であるのかもしれないが、

意識の闇に隠れて生きる「魔物」の温床になっている現実。

それを認め自壊する者も、他人事を決め込んで見て見ぬ振りする者も、

 

同等に扱われているメディアにおいて、

ぜひとも、対等に評価される機能はできないものだろうか?