サラリーマンになることで「失敗できない」病理
この紹介記事の現状は、さまざまなシーンで日本と比較されるEUドイツの現実を示したもの。
普通のサラリーマンをユダヤ人虐殺に突き進ませた「組織悪」の正体(根本 正一) | 現代新書 | 講談社(1/5)
この国のサラリーマンの現実も、なんとも日本のそれと符合することが多いのには驚くが、似ているとは言え根本的に別々の相違があるはずの日本でも抱える、ホワイトカラーを選択したがゆえの病理と苦悩は、突き詰めれば詰めるほど闇深くなる。
ドイツも日本も、これに至ったきっかけは似ていて、
「汚れない職業に就きたい」
というささやかな願望から始まっているが、いざ就てみると「見た目上」は綺麗でも、内部的にはドロドロの汚れまくった職場であり、
「問題を問題として解決しなければならない」
複雑怪奇でフラクタルな世界だと気づく。
しかも、見た目に出にくいために問題化しにくく、いざ表面化した時には「ガン」のように手遅れなことは珍しくもないし、その重圧に耐えられず見て見ぬ振りする逃避が日増しに増えてくれば、さらに重症化してしまう。
この世界を、自らリスクをとって離れた者や、不本意にもふるいにかけられ落とされた者たちは、経験上多くの惨劇を体験していたがゆえに、本来の見た目は美しい姿に憧れた自分を顧みその世界を傍観できている(または、させられている)。
その機会を持つこともなく、または機会から背いた者が織りなす「サラリーマン・ワールド」は、誤解を恐れず例えれば「ママ友・ワールド」に起きる問題と似ているのかもしれない。
何を持って生涯の仕事とするか、それとも仕事の意義を広い意味で解釈する機会を持てなかった人々は、仕事の定義が狭くまたは限定せざるを得ないがために、霧のように見通しのきかない状況に自らを追い込む。(うーん芸術的だがそれは悲劇)
その隔絶された世界での「成功」は、法外な年収であり、出世であり、雇用されること以外に得られる自由と時間を意味する。
「私は正気で、真っ当だ」
と、言い切れる自分を真剣に考えたことがあるだろうか?
普通の経験値なら、相当の障害的な経験をしていないと至らない。
しかも、そういう立場に追い込む手段からしか、底も見えず抜けられないジレンマ。
多くが、実は限定された「自由」と「時間」がすべてのように、自分を偽り欺くことで、より自分の立ち位置や現実を客観視しにくくし、同胞との比較によってしか判断できない世界へ追い込む「病理」へと足を取られていくのであり、その姿は、映画「マトリックス」で私たちが感じた現実世界への誤解の感覚と似ていて、それが自分にも降りかかる、
「今そこにある危機」
として自覚して行動できているかに、その分岐点が求められる。