自分のノウハウと単なる知識の差
記憶は「反復」による脳への定着が大前提で、手を動かすことで記憶を定着させやすいのでは無く、何度も書くことで記憶する手段でしかないはずなのに、メモ=記憶定着されないし、ネットに保存することも同様。
記事の実験は、保存先を無くしてしまえば正しい答えができない事実を証し、メモやネット保存にしろ定着化のプロセスの放棄の危険性を指摘されるものだが、経験上で納得できる記事ではないか。
筆者は手書きで字を書くことが昔から苦痛で仕方がなかったこともあって、早期からキーボードで記述反復の記憶定着に固執していた。
そのためPCやネットワークが普及しペーパーレスが一般化するまでが、とても違和感があったので、記憶の電脳化はとても関心が高かったので、この実験結果は救われる思いだった。
記事によって感じたのは、人間の脳の役割である「記憶の蓄積」をITネットワークを巨大化した脳のように捉えると、ますます脳とネットワークの関わりは進化しているのだと実感できること。
まるで一昔前のSFドラマを思わせる現実を切り取っているようだが、筆者にはポジティブに捉えたい。
今ネットワークはAIの進化によって脳の代理機能を果たそうとしているが、人からすれば記憶先が自分の脳から外部ネットワークに変わったことになるが、もちろんそんな自覚がある人はほとんどいないだろう。
ネットワークの進化の主旨は、人の脳の模倣から学び脳という思考の場が人間からネットワークへ移りつつあることを認めておく必要があるだろう。
こうした記憶のネットワーク化が進行しているとすれば、良いことと悪いことがある。
良いことは、筆者が支持する記憶の一部を外部委託することで脳にゆとりができる分、その余力をよりクリエイトな利用に回せるという点。
悪い点は、記憶をネットワークに依存する過程で、外部の誘惑を経由せざるを得ないことになる点。
など、両面を比較した上で手書きによる記憶定着の是非を考える必要があって、筆者とて前者を盲信・推奨するものではないし、人によって向き不向きの判断は必須だろう。
ネットワークの利便性向上に対して、今最もタイムリーな弊害は、
例えばいまチベットで中国によるウイグル自治区での搾取が起きている最中、日本から見て香港のデモが架橋を迎え、そちらに集中されがちな状態になるなど、悪事で最悪の悪事を被覆される厄介な事象も起きている。
一見はネット上で地政学的な障壁は無くなったと言われる中で、実際は不慣れな人間の脳はリアルな実感を信用していて、ネット上でも実際の位置関係や距離感を基準に情報を区別する習慣は残っていると言う弊害事例。
この例は情報発信量と大手メディアによる扱い方の影響も否めないものの、 脳の空間認識とネットワーク化した脳のそれとの調整ができていないことによる錯覚や障害への可能性も、多分に含んでいると筆者は考える。
具体的な記憶のネットワーク化への功罪が今後我々にどういう影響を与えるか、今しばらく見守らなければならないが、単に便利と理解される情報ネットワークの本筋を理解して、より自分らしい使い方を心得るノウハウは大きな過大なのかもしれない。
単なる知識の提供や保存先として利用するのか、脳の記憶の定着手段だったり、思考をより豊かにする道具として利用するのか、それぞれの解釈の真価が問われているということではないだろうか。