くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

天皇行事と女性差別の関連性

予め断っておくと、筆者は中学生当初よりフェミニストを勝手に自称していたほど女性の能力の、不当な活用される社会の動きに不快感と、虚しさを持っていたが、最近盛り上がりを見せている、女性への意見には違和感を感じだしている。

 

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そもそも、男性社会と女性社会では、根本の発想が異なることをベースに考える必要があって、それは前者が競争を前提としたのに対して後者が共感を前提としている点である。

 

女性の優れている点は、脳の構造からくる並列処理能力の高さであると思っているが、彼女らまたはそれに近い思考方法を持つ男性も含め、コミュニケーションを頻繁に行なって情報交換を密にし、徹底した共感を持って問題解決にあたる社会性に沿ったものであること。

 

一見男性から見れば、暇さえあれば寄り集まって時間の許す限り話まくる姿には、閉口する諸氏も少なくないだろうが、裏を返せば男性の限界を露呈したものとも言える。

 

女性はかつて太陽であった。

 

大昔に誰かが言ったこの言葉は、事実如何に関係なく的確女性能力の表現と言って良く、筆者はこの真理表現がとても好きである。

 

ただ、しかしながらもその目線から見ても、最近再発するウーマンリブ死語のような女性権利の活動は、先にも指摘した自然環境保護に使われた、少女の話題にも通じる不健全さを禁じ得ないのだ。

 

この活動は事実、少しだけ女性の活動の場をフランクにし、活動の場を広げるのに貢献しているものの、本来期待されるべき広がりをなぜか見せていない。

 

その本心には、子供の純粋さを利用した思想活動や、一部資本家がバックアップするエコ市場拡大の貢献にしか利用されない事実であるし、この情報網の拡散は女性の情報拡散力を最大限活用したものである点を、見逃してはならない。 

 

おそらくこの推測が事実なら、この後彼らの効果が実現の暁には、まるでなかったかのように女性活動の影響力は形を潜めていくだろう。

 

こうした物事の起こりと終焉は、私たちの生活に深く食い込んだ情報システムによって、流行のようなエピソードの一つとして起きては消えていくだろうし、それを普通に受け入れてしまうだろう。

 

陰謀とは、それほどナチュラルに、そして強かに確実に進行している生活の一部であり、我々は個々にそれに適応・敵対していかなければならなくなっている。