くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

未来へのリスクは、立場・年齢・性別に関わらず等しく課される

この韓国トップの下した決断をどう批判するか称賛するかは、まだだれもすべき時期ではないが、国のトップとしての決断としては誰にもまして早く、そのインパクトは無視してはならないと感じたので記事る。

 

この会談で交わされた内容には、今後WHOの存続を見越した新しい動きや、多くの伏線が想定できることから、他国がどう動くか気になるところであり、当に医療戦国時代の旗揚げあり狼煙ともとれる。

 

さて、その成否の結論は急がないとしても、一方で日本のトップが国の運命を左右する”英断”を下した姿を久しく見ないのはなぜだろうか?

 

topics.smt.docomo.ne.jp
文大統領、ビル・ゲイツ氏と電話で会談…コロナワクチン開発など議論(中央日報日本語版) - Yahoo!ニュース

 

ギャンブルを避けるトップこそ優秀だと多くの日本人が判断しているからだろう。 

だからと言って、それを韓国や今後動くであろう他国の判断に対して、そのまま向けていても良いのか?

 

その判断は、そう簡単には出せるものではないほど多くの未来の選択肢をはらんでいる限り、一刀両断するようなな決断をすべきでなく、この段階ではこの事案で学べること時間を割くのが賢い選択だろう。

 

一刀両断すべきでない根拠は、経緯はどうであれ結果は受け止めなければいけないという至極普通の理由からだ。

 

今起きていると言われる国ごとの現実に対しては、彼は間違いなく誠意をもって全力を尽くし第一のホップができたことは否定できないし、その彼が下した第二のステップを私達はみとめるしかないし、第三のジャンプである結果は、まだ見えてさえいないのだから、感情的な判断は避けたい。 

 

また前者は日本やアメリカからすれば、眉をひそめる人物ではあっても中共ウイルス対策においては、みごとなまでのV字回復をしてみせたし、日本流の常識やルールを無視しても一気飛びで切り抜けた手腕についても同様である。

 

 

世で言われる競争原理には、限られたチャンスに先んじたものが勝者に成れるというものがあるが、彼はその一発大逆転のために常識をかなぐり捨てて、自身と国の運命と未来の全てをかけて、勝負に出たことになる。

 

その種類の甚大なリスクを、禁忌ととるか好機とするかはトップの思想によるかもしれないが、成功・失敗を分ける比率はギャンブルと同じ50%:50%であり、彼がその賭けに国を差し出すのが正しいかはまだ答えは示されないが、50%の勝率は世にあるギャンブルの中では、今のところ高確率であることに注目したい。

 

 国の未来や人生がギャンブルだと言ったらお叱りを受けるかもしれない、ただ今の筆者には、申し訳ないがその高尚かもしれない理屈が、現実において説得力を持たないと、思えてならないのだ。

 

さらには、その真実は過去に言い尽くされた理屈にはなく、未来に常に現れる半丁博打と同様のロジックが有効ではないかとさえ思えた。

 

だからと言って、おいそれと安易にパチンコする気も麻雀や競馬競輪などに没頭する気もないが、国であろうが企業であろうがましてや個人であろうが、有事に運命を開くにはギャンブルのロジックも使い方次第ではないだろうか。

 

 

人の世は、ギャンブルの連続である。

 

世の中には、比較的安易なものから巧妙なものまで、その逃げるための様々な仕掛がいくらでも用意されているし自ら作り出すこともできるが、そもそもその裁量や判断の自由には多かれ少なかれギャンブル性はあるのだ。

 

それは勧誘や詐欺などという分かりやすいものから、考えようによってはちょっとした気の迷いを誘うようなものまで、そのバリエーションは無限であり、その中で我々は赦された範囲の自己裁量で生きているようなものである。

 

その避けられないリスクの中で、高尚な理想をうたい上げ選挙や然るべき人事によって、トップの座についた者たちはそのリスクを取った代償に、いきなり想定すらしていなかったさらなるギャンブルの雨嵐に遭うのである。

 

そこで本来の意志を貫く者も居れば簡単に押し流される者も居るが、跳ぶか踏みとどまるかの判断を迫る刃のような恐怖やそのプレッシャーは、立ち会ったものにしかわからないし、傍観者には理解されなくとも結果として評価を下される。

 

筆者は傍観者はつべこべ言うなとか、誰もが首相や社長に成ってから云々とか言いたいのではなく、出来る限り同じ立場に身を置く努力を課さないままでは気持ち悪いし、理解できうる限り同じ立場に立って全体が見たいだけだ。

 

その視点に立ったときに、わが身は何を感じてどうすべきかを始めて、同じスタートラインに立てるのではないか?

 

 

その時のリスクから、誰とて必ず逃げる。

 

それは人間である以上仕方ないことだが、逃げてしまう自分を省みて行動できる自由を持っているいるのも人間だからこそ、せめて生きている間は個人が採るべきリスクは、最大限採って死んだ方が満足度は高いと思いたい。

 

もう一つ誤解してほしくないのはその判断は、組織や家族の単位で背負うものではなく、あくまで老若男女問わない”個人”にすべからく背負うべきもので、その背負うものを人間組織の最小単位の家族であろうと関係なく、負うものであるということだ。

 

それが納得できないのであれば助け合うのも良いが、たとえ親子間であっても最終決断と行動は、ひとりひとりが負う現実から誰一人として逃げ隠れはできないだけに、原則個人が負うことになる。

 

 

人との決別を経験したものであれば、身をもって承知の上だと思うのだが、そうでないひとも含めて、人生と未来の選択のしかたをどう思われるだろうか。