くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

ネットワーク社会に気づかない、共感と同期の違い

芸能人の自殺が相次ぎ、スポーツ界でもフィギュアスケートの王者ロシアから突然の悲報が流れた。

 

thedigestweb.com

 

有名人であればまだ目に止まりやすく、話題にもなりやすいが、一般人での自殺者は社会問題とセットでなければ日頃のニュースに埋もれかき消されさえする。

 

一昔のように通信ネットワークが整っていない時期なら、ごく一部しか明るみにならなかった自殺者報道は、今では様々な切り口で根掘り葉掘り深堀されて、永久に情報がアーカイブされていく時代。

 

訃報は時には、人々の心に良い記憶として残る一方で、人の死がもたらすイメージは負の世界の扉を開く手助けをする効果を持っている。

 

特に自殺する者の中には、才能豊かな鋭い感受性を持つがゆえ全てを抱え込み、または物事を突き詰めすぎるが故にそれに追従できない自分の不甲斐なさを責めてしまう。

 

身体の慣熟の前に、精神が先を行き過ぎると人間は破綻する現実に、見切りを着けられないまま情報飽和の社会に生きるためには、慣れない事に鈍感にならざるを得なくなる。

 

しかしそれに慣らされるというのは、同時に人間が本来持つ

機器回避の本能を捨てる事と同義だったりするのだ。

 

この結果、ストレス回避の手段で情報に同期するさせようとする行動と、真偽を見極めたり生きることへの共感する行動がの区別がしにくくなってしまっているのだ。

 

そもそも生まれた以上は避けられない、家族や身近な人の死への共感行動の機会の数よりも、本来知ることも無かった理不尽な他人の死のニュースがあまりにも増え過ぎた。

 

人間が安定した精神を維持する意味では、慣れる同期行動をしなければならないように、人の生死が与える影響が逆転するネットワーク社会が成立してしまっている。

 

本来生を受けた者全てが、生きる意味や動機を考える余地を与えられていたのだが、頭が先行し過ぎると自らその考える時間を減らしてしまう悲劇が起きてしまうのはなぜだろうか。

 

理由は色々考えつくだろうが、ひとつは時代の過渡期にあって一番大きな変化と言える、インプット情報の氾濫にあるだろう。

 

つまり、人が生きる原動力として感情の揺さぶりをさせるきっかけにしていた共感機会が、情報氾濫によって、単なる情報の同期と区別が付きにくくなっているのだろう。

 

似て非なるこの共感と同期の違いへの分別が、本能的にできなくなるほど疑似情報が錯乱したことで、心の底から情動を湧き出せる機会を、みすみす逃してしまっているのだ。

 

創造性についても、全く同じロジックが働いて、人が変化を見出す隙間を疑似情報が次々に埋めてしまっているために、人間の創造性がそれ以上取り付く島が無くなっているのでは無いだろうか。

 

人は生まれた時点で無条件に死を意識させられる存在になるが、精神が繊細であったり優れている者程、それを当たり前に受け止められ無くなるという足かせが付いて回るのだ。

 

そんな社会において、完璧主義者は現実生きられないにも関わらず、それを避けられない、または逆を選べない不器用さを、他人では尚更自分でさえも自覚できない社会に、両足突っ込んでいると言う意識が働くかどうかは、共感と同期のさを感じ、共感力をわざわざ鍛えなくてはならなくなった時代の理不尽さと言わねばならない。