くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

これからを生きる者たちへのチェックメイト

日本経済成長の視点から見て、2020~2025年は過去の経済成長期に次ぐ大転換点になると、筆者はみている。

 

根拠は、既に30年前から政府のデフレ・緊縮財政が進められ、消費増税によって完全に経済成長が止められてしまったこと、これによって限られたパイを食い合う時代に突入した点。

 

隣国の北朝鮮が軍事的脅威をちらつかせて、日本から経済援助を要求するパフォーマンスに気を取られている間に、これも戦後から準備されてきた中共による経済・教育の傀儡化が、最終段階に入ったこと。

 

そして、最後の頼みの綱である同盟国アメリカが、政権交代による弱体化の影響が出ている事。

 

それぞれの根拠において、5年の猶予期間中にどれほど好転するかは未知数で在り、いくばくかのきぼうではあるものの、暗転した場合の可能性も含め、今の時期が最後の選択チャンスだろうと考える。

 

こうした終末論は、この情報氾濫の時代に腐るほど言われているので、またかとため息をつく諸氏も少なくないだろうが、そう思うならそれでもいい、筆者は可能な限り事実を根拠に単なる可能性を言っているに過ぎず、預言をしたつもりは無い。

 

もう人生の大半を生きた人間ならば、来る20年後が最悪の状況に転んでも、まああきらめもつくだろうが、そうでない人たちにとって問題は、これらの事実を踏まえ理解している大人は多いるはずなのに、行動に出していないのではという不安である。

 

SNSの意見が、見る度に心配はするが行動はしないという点で共通しているのは、さらに不安を増長させ、いわば行動の牽制ををし合っているようにしか見えない。

 

おそらくその主たる原因は、長い間平和と経済的恩恵を、当たり前のように享受しておきながら、その源泉を省みることもせず正そう行動もしなかったツケと借金がまわってきたのではないか。

 

この後、その事実を無視しながら行動を拒み流れるままに身を任せるか、今からでも自分の意志で考えリスクをとりながら後世に引き継げる行動を取るか。

 

好転を望み行動できるなら、それは革命運動を起こすことでも無い、犠牲になって喚起を促す者でもない、今までの生活の中で取捨選択をし直しながら、分相応をわきまえて他人の居場所を認める、この程度の事を日々実行するだけである。

 

意外と未来の可能性は身の回りにあって、それぞれにの一挙手一投足如何で簡単にかわってしまうことを知ってほしい、突き詰めればその転換点は常に付きまとっているという、自覚の有る行動をしているかどうかだけである。

 

完璧な人間は居ない、緊張する必要もない、失敗しても行動する方を選ぶことを恐れずに、単に金銭的な損得だけで創造や行動を自分から捻じ曲げるのだけは、やめてもらいたいだけだ。

 

そういう意味で、行動してもしなくても所詮自分の人生は大きく好転することも暗転することも無い、ゆえに出来ることを探りながら変えようとすることも、選択をせず行動をしない分他人の意見に依存する、そのどちらもできることになる。

 

それを迷っているときに、自己主張の強い意見が自分の中で巨大化し、押し切られやすいのであるが、それを拒む自由もあることを最後まで忘れないでほしい。

 

出来ることは、それぞれの境遇によって千差万別ではあるものの、これほど行動の選択肢が広い国はそう多くはないし、奇跡でもある。

 

この国は、天皇制を変えることなく国民が保存し続けたことで、行動の平等が保たれてきたし、海外でも日本を制圧できないのも変わらず続いた天皇制の価値のおかげでもある。

 

我々は、この価値に平伏す必要もなく自由に行動できる国に住んでいる、その事実をいまさら国民から放棄する愚行だけはしてはならない。

 

しかし、それ以外の行動は自身にとって前向きで、他者にも無害なのであればはばからずに行動できる、それが日本である事実は間違いない。

 

不平等は外部のさまざまな影響力によって、国民同士が惑わされ視野を狭められた結果に過ぎないのだから、お互いさまで邪魔をせず前向きに生きる、これだけで良いのではないだろうか。

 

世の中は思った以上に単純もので、複雑にみせようとする者には警戒しなければならないが、行動した人にしか未来は姿を見せない以上は、オゴラズスナオニ、デキレバマエムキニイキル、これだけは筋を通しておきたいものである。

 

最後に、日本はこの5年ほどの期間のそれぞれの選択や行動で、その先の20年ほど先の未来を大きく変えることになる。

 

日本の未来がどちら側に転ぶかは誰にもわからないが、どちらに転ぶにしてもそれは共同作業の結果であり、個人の行動の結果であし、天皇制の価値を下げるか上げるかも、その行動の結果だ。

 

もうスタートラインから走り出している以上、参加選手はその僅差を楽しむことで、レースを互いに盛り上げながら、フラグがおろされるまでそのドラマのキャストであることを、自覚していいと思うのだ。

 

未来をつくる参加者として楽しめる行動は、勇気と責任と緊張感の中でしかできないプレミアムな行動であり、その自覚の分だけ良い未来を共有できることになる。

 

不参加や離脱するのももちろん自由だ、同時にその行動を責めてもいけないが、辞めればそこでその人の未来は成長を止めるだけのことで、それに手を差し伸べられても、かれらの未来を保証することは、誰にもできない。

 

自分の未来は自分の自覚で創るものである以上、その資格は平等であり誰も手を出すべきではないが、それを足を引っ張る者に過剰に反応しないように気を付けなければならない分、日本の環境は冒されているハンディは既にある。

 

それを含めて、レースを楽しむ度胸は必要になっているが、まだまだ楽しむ余地はあるはずだから、シンプルに楽しもうじゃないか。