くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

宗教の影響力への尺度を計り、分析力を鍛えること

 先日のテレ東ニュースで、米大統領選の期限が迫っていることから、候補者の内情を特集していたが、劣勢のトランプ大統領が追い上げをするキーパーソンの話題が出た。

 

災害救援を通し布教活動する「大統領の牧師」と言われるノースカロライナ州を拠点とする、キリスト教プロテスタント団体「サマリタンズ・パース(Samaritan's Purse)」と言う団体の記事で、バイブルベルトと呼ばれる米南部州を束ねる巨大組織で、米大統領選挙の裏方としても活躍した代表:フランクリン・グラハム氏のインタビューなどで、これまでの米南部で支持基盤が硬かったキリスト教徒たちの中割れが目立っていると報じた 。

 

アメリカ合衆国は、文字通り複数の自治州の集合体で、そのトップを各州ごとの独自投票によって決める仕組みをとっているが、多民族国家ならではのこうした人選やビジネス的な成功には、宗教の影響力が馬鹿にならない。

 

中国でも、仏教徒共産党の支配で淘汰され、近年中共政府の弾圧で話題になっている法輪功なる独自宗教団体、韓国や周辺東南アジア諸国であっても、また仏教国日本でも少なからずキリスト教徒が、少なくない影響力を持つ。

 

中東ではイスラム教や世界中に散らばるユダヤ教など、布教活動の活発な団体ありなしも含め、殆どの人間の行動の規範になっていることが、世界経済を動かす力になる。

 

日本では仏教、便宜上神教があっても、強制力や組織力を持たないこともあって、実質上積極的な宗教活動を介して、思考や行動の規制や方向性を決めると言う習慣はほぼ無いと言っていい。(一部某〇〇学会・〇〇の科学はあるが少数)

 

海外の多くが、宗教間による思考によって動いているという事実が、基本無神教の日本人には、理解しがたいシーンが多いが、世界市場を目指すときに必ずと言っていいほどこの事実を避けれは生き残れない。

 

むしろ過去の日本企業の世界進出で、日本の事情を無理強いした結果、撤退に至ったケースが、ここ30年来企業の頭を悩ませ、進出ネガを生み出したことも記憶に新しい。

 

そもそも経験の無いことを、理解したかのように行動するのは難易度が高く、うわべだけの共感や理解を示す浅い行動は、むしろ関係を悪くしたわけだ。

 

だからといって、いまさら日本人が生活様式を変えるわけにもいかず、それは仕方ないにしても、進出ネガによる海外経験不足が、多くの日本企業が国際音痴に陥ってしまった。

 

昭和終盤から平成までの国内の海外意識は、あくまで海外旅行に必要な程度で事足りているというレベルで、仕事で海外に”飛ばされる”など看過できないという意識だったことからも、企業姿勢だけでなく国民全体でも、海外に関心を向ける意識は低かった。

 

しかし、昨今2010年頃からの無神教唯物思考の中共の台頭によって、宗教社会が混乱し一部の宗教や思想が弾圧搾取の対象にされるなど、拠り所を基盤にしていた経済や社会のサイクルは、完全に狂わされてしまった。

 

その中で、そもそも宗教依存のなかった日本人は、宗教的な規範無きまま混乱の時代を生き抜かなければならなくなったと言える。

 

一見自由度が高い分、日本人の方が行動しやすくリスクが少ないような気がするが、そうではなく、混乱時ほど人はすがるものを持っている方が行動が安定するため、その規範を自分自身で解決しながら行動する難易度は、逆に極めて高くなる。

 

最近やたらと”日本人原点回帰”だったり、神社や自然への帰依が都市伝説などで流行したり、ヒーリングスポットが注目浴びたりするのは、そのためであろう。

 

ネットから自由に世界状況が見渡せるようにになったことで、世界の大きな変化に大慌てで行動修正しているのが日本の現状で、ただ結局は企業にいい様に利用されているだけで、この宗教観の欠如はこれからも日本を混乱に導く王道として、世界中に利用されるだろうことは目に見えている。

 

ここで、筆者はどこかの宗教団体に加入すべきだと言いたいのではないし、自分も無宗教な立場であるが、いくつかの宗教については成り立ちや教義については、抑えてきたきたし、どれほど宗教観を無視され対応されることが、自分を馬鹿にされるより赦されない事かを身をもって理解しているつもりだ。

 

それはさておき、個々の考えではよくもわるくも取れる宗教・思想によって、個人の実害以上に大きな影響力を持つという事実を、日本人は必要以上に意識して行動しないと、身を滅ぼされかねないという現実を考えて欲しいと言うことだ。

 

こうしたトラブルを意図的に避けて生活することは、今のところの日本では十分可能ではあるが、避ける以上は国際的な境遇は一切享受できないだけだが、できれば避けるべきだ。

 

この状況に近いことはかつてあった、敗戦後もその事実を知る術もないまま、何十年も孤島で戦争の世界で生き抜かなければならなかった、生き残り兵士の悲劇を繰り返すようなものだ。(戦時中の人々は、情報統制されていた分仕方なかった)

 

一方で、これだけ開けた情報開示社会に住んでいるにもかかわらず、宗教観に対しての自分の行動基準を明確に持たないことは、自らその状況に飛び込んでいくようなものではないか。

 

自分が持っていないもを、持っている人と行動を共にする場合、理解できていない要素は、可能な限り排除しておかなければならない。

 

余計な情報飽和社会の日本にあっては、そこに依り所を持たない者にとって、何をもって判断基準とするか極めて重要であり、宗教観はその基準の中でも最優先で押さえておくべきものである。

 

逆に言えば、抑えさえさすれば多くの難問が解けやすくなるのであり、むしろ早道だったりしないだろうか?