くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

UFOの次はゾンビ?最新トレンドを裏切らない現実逃避のシンボル

UFOを高等生物の乗り物に限定しやすい傾向は、日本人だけでもなくその他の国の自称目撃者にもあることだが、それ自体信じない人たちにとっても1種の奇跡としての産物だろうし、ゾンビも同様に時代の社会背景が生んだ「希望や苦悩と現実の理不尽」の間を埋める緩衝材が必要なのだろう。

 

他にも日本人がパワースポットを好んだり縁起を担いだりするのもそれで、ただそれは独特の精神性や創造性を反映している一方、深刻な依存体質が大きく影響していたりしているのではないか?

 

現実を生きる我々にとって、少しでも早く依存から脱却し、自主独立を目指ていいはずだが、日本人はその現実に対する表現に極めて消極的で、「融和」や「おもいやり」「事なかれ主義」など、日本人の気質を美化・皮肉った言葉で言われる、日本独特の概念として定着している。

 

その背景には、根幹的に依存すべき宗教を持っていないことや、仏教は時代の政府の都合で押し付けられてきた事情や、神教をつかさどる天皇でさえも、ある時から依存対象として外され、現人神とされた後はその信仰力を疑われさえされている。

 

しかし私たちも人の子であり、特に被支配層の中には「依存したい」「信じたい」という、強い願望を満たす何かが必要なのだがが、これと言った決め手に欠けている。

 

そこへきて、日本だけでなく世界中で目撃されるようになったUFO現象は、当に渡りに船でツボだったということで、要は信じやすい人たちは心が不安定になったり、現実を回避できなくなった時に、苦渋の選択として現実からの衝撃を和らげる何かを求めた、その一つが「UFOは宇宙人乗り物」説だった。

 

日本人が信じやすい「UFO」現象を信じる場合には、いろいろな条件が必要なことが多いようだ。

 

・UFOは外宇宙の知的生命体の乗り物でなければならない。

・必ずその時代のテクノロジーを凌駕するスペックでないといけない。

・見た者は、特別な人として扱われる優越感が与えられ無くてはならない。

……

 これは、時代の支配層と被支配層との関係や、叶わぬ願望を満たすために譲れない条件だったのだろう。

 

UFOの存在化は、宗教ほど重さや縛りがなく罪がないし、最新のUFO情報は、その時代時代の期待を裏切ることなく、トレンドのファッションの様に不思議と目を逸らさない魅力と、飽きが来ない都合よさもある。

 

海外でも本家アメリカは、マニアの海外クリエーターも少なくない。

例えば、クリス・カーター氏だ。彼は「X-Files」の監督で、ネイティブ・アメリカンの持っていた東洋人的思想文化に傾倒していたこともあってか、彼はその作品中にその真実を示していた。

 

「I want to believe」

 

主人公のモルダーが、自分のFBIオフィスに貼ったポスターに書いてあったコピー。

これも、日本人のUFO信仰に近い願望そのものではないか。

 

この言葉は、ドラマのなかであざとい位頻出しており、ドラマはモルダーのその願望に応えるかのように展開していった。

 

しかし結末は、すべて曖昧にされ、自分さえ精神障害や自己犠牲という現実なのだ。

 

それでも「そこにある真実」を異常に追い求め、周りを巻き込みながら更なる自己犠牲をもろともせずに、突き進むのである。

 

この精神疾患のような行動は、最愛の家族が理不尽な失踪や死を目の当たりにした彼の、葛藤ゆえの行動に過ぎないのだが、周辺は執拗なまでに追い詰め、現実の罪を彼に押し付けていくのである……実におぞましい現実を比喩している。

 

UFOやエイリアンは祭り上げられ、壮大なペテンの道具として人類を、ある方向へ誘導していくのだが……現実主義者はすぐに気づくだろう。

もしこれを実行するならば、どれだけの予算がかかり、その割の合わない見返りの小ささに、筆者が陰謀の実行者であってもすぐ損切りするだろう。 

 

 それを示すまでもなく、よもやモルダーを自分に重ねてみる人は居ないだろうが、まだ自分は何かに影響を与えられると思い込むのは、今すぐ辞めた方がいい。 

 

 

そんな都合のいいファンタジーが世に出る前にも、作られた依存性は存在しており、世界的に知られているのは、大東亜共栄圏の理想と現実である。

 

その結末では、日本は「特攻」という、日本精神を過度に捻じ曲げた思い込みを、利用され実行されてしまった。

控えめにいえば、人の命を生かすための自己犠牲としての意味もあるので、無意味では無いにしても、その犠牲はあまりに大きすぎた。

 

信仰宗教の教祖や、度を超えた共産主義自由主義者にしても大同小異で、度を越した言動は自分の思い上がりからくる、思い違いに過ぎないし可能なら、目を覚ましたほうがはるかに自分の人生に有益なはずなのに、自分で自分を追い込む習癖が、愚かな行動をしてしまう。

 

心理学的にはその答えは出ている、上に書いた通りだ。

だまされたい、信じたい心理を、利用されないようにはしなければならないし、

慣れてしまえば、その子供の様な願望は夢から覚めるかのように消えるはずだ。

 

そしてもっと自分の人生にとって、有益な行動に時間を割くべきなのに、本来からある人間の本能や判断行動をしない人は、数字を根拠にされる偶然や創作された危機を真に受けたり、その分本来見るべき事実を見落とすことになる。

 

そのチグハグさに危機感や、気持ち悪さをおぼえる人は、自分が何を信じてしまうのかを、その場で真剣に思い返す絶好のチャンスであって、何をおいても優先すべき生き延びられる人に備わった、本能的な知恵だろう。