環境ビジネスに見る、オトナの起業リスクと可能性
商業では、子どもの純粋さや無邪気さのイメージを利用するのは基本中の基本で、誰もが可愛らしい子供が放つキャッチフレーズには目尻を緩ませ、真剣に訴える姿には心うたれてしまう。
ところが、彼らを広告塔に使う側では、もう何十年も前からその子どもたちの、無垢な姿から学ぶべきものを忘れ、上から目線で搾取しかしない態度の風潮が、標準化されてしまったようだ。
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例のグレタさんの可能性に、オトナは金の匂いを嗅ぎつけてむらがり、今度はMARVELのバトル映画よろしく、新たに宿敵を投入したようだ。
この展開は当にMARVELムービーのそれであり、もちろんエンタメとしては世界の刺激を求める視聴者には、期待いていた展開であり、注目度をあざとい程高めるモノだろう。
このような記事を書けば、筆者さえも便乗したことにされても否定できないが、ここで記事にするのは子供の存在を商用化したり、一方で虐待や少子化と言う物理的な弱い者イジメをすることに抵抗がなくなっている風潮が、解せないだけである。
グレタさんもナオミさんにしても、始まりはオトナたちに気付きと行動をしてほしいと言う、純粋な正義感から行動しただろうし、その願いをオトナは曲解して、世間の厳しさを躾けるかのように、利用しようとしている。
数日前何かの記事で、マララさんとグレタさんのツーショットを見たが、筆者は彼女たちの誇らしげな笑顔に本来の希望を見ることはできず、哀れさを感じずにはおれなかった。
かつて、ある宗教的な社会感が疑うべくもない常識だった時代に、一部の科学者が人間が立っている大地が回って天は止まっていることを、証明してみせた。
事実を素直に見識し、正しいものをより正しくしようと行動する、子どもたちのオトナの呪縛にまみれない純粋さは、オトナが最も学ばねばならない宝である。
ついでに先の宗教観を借りれば、アダムとエヴァは子どもであり、迷わせる蛇はオトナだと言えるかも知れない。
アダムとエヴァは、神の次にこの地に生まれた人の原型であり、神に最も近い存在であるなら、彼らにその声が届かなくしたり、よもや迷いを囁くなどは、人として自殺行為のまやかしなのだろう。
子どもへ善人の面でウソを囁やき、仮面の奥の姿を偽ろうとする亡者が居たとすれば、それは無神教者や共産主義者でも無い限り、自分の宗教観を汚す行為に他ならない。
オトナが始めた誘惑やまやかしは、その後人類の未来を豊かな楽園から追放し、荒れ果てた僻地へと追いやる結果として、「穢し」の伝統が引き継がれてしまったのだろうか。
オトナの子孫は、お金を作り、権力を生み、未来の砦である子どもへの搾取に手を染めた。
その後、オトナは私益のために、時には子どもを売り、犯し、殺して死体さえ利用してきた、おぞましい生物として生きるための歴史を持っている。
子どもは、彼らにとって未来の希望では無く、金の流れを生み出す添加剤としてしか意味を成さなくなっているのかも知れないが、それでもビジネスの知恵は物理的搾取を避ける手段として、有効なヒントにもなり得る事も学んだはずだ。
ただビジネスを起こす時には、少なからず子どもの可能性を貶める反面があることを、我々は十分配慮して行動しなければならないし、本来の神の称賛の声に叶っていない言えるだろう。
「綺麗事だけで、成功すれば苦労は無いよ」
オトナの都合にどっぷり浸かりきった者には、一見もっともらしい定型句だが、いい訳でしかなく、すでに未来に対して背徳する言動に他ならない。
純粋な理念は公言すればするだけ、ケガされむしり取られていくものだ。
賢い起業家になりたければ、
その現実から子どもの心を自分の意志で大切に護り、
しかし決してブレない知恵を知っておかなけれならない。
この意識は、信教者はもちろん無神教者であっても、またこれから正常な起業をする者にとって、イロハのイであり、どんな起業ノウハウより最優先すべき真理ではないか?
純粋さを無くした起業心では、モチベーションは続かないし、
真新しさを失った使い古された理念では、スタートラインにさえ立てない。
宝である子どもの心を護り育てる努力こそ、
最後に残されたブルーオーシャンへの道と思えないだろうか。