くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

テクノロジーに溺れる、IT化の落とし穴

昨今、TVメディア各局内で感染症患者が出たり、出社規制をする事例が増えて来たが、彼らが起こすそれは我々が起こすこととは、また違った意味をもたらすことに、意外に気づきにくい。

 

情報発信者やメディア局の報道者が減ったりテレワークに入れば、今我々の間でも起きているように、情報の質がより限定され淘汰され、単に発信力が強いメディア情報に依存させられる環境になったり、発信者同士の意思統一や疎通がテレワークで限定され、誤報率が高まることを意味する。

 

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特に普段から誤報率の高いメディア(主にTVなどオールドメディア)のそれは、さらに無茶苦茶になりやすく、基本受け身で影響力が高いだけ、市民への災難は増えるから厄介である。

 

つまりノイズが増えるということであり、我々は行動を規制された上に情報を形骸化されて、ストレスが上がって精神が不安定になりやくす、情報の判断や健康の管理ミスを起こしやすくなる。

 

まだ情報の練度が高い人は良いが、限定されたものへの混乱は場合によっては、より多くの”余計な”誤解を招きかね無いだけに、無責任にこのような不注意は、報道姿勢はより自覚し、厳格に行動していただきたいもの。

 

こうした有事において、普段と違う判断や行動力を見せないとならない今、批判するだけでなく我々はこの事例を反面教師とし、有るべき情報の扱い方とすべき行動を、むしろ自覚しながら体験するチャンスとして活かしたい。

 

また有事に起きやすい、実質統制である政府要請という抑制と行動規制にも、過度に忖度したり自己抑制しないように注意し、可能な限り自然体で中間の立場に身を置く、

良い実践の場にもなるだろう。

 

情報統制と政府の強い要求は、今回の世界的災難において示されつつあるように、今では戦争時などの有事でなくとも、起きうる事を知ることができたのは、貴重な体験だ思っている。

 

かつて、有事未体験のまま一生を終えるのが最も理想だと思っていたが、その当事者になったことで、他人の記録でしか聞かされなかった現場感は、リアルタイムで味わえているのだし、戦争時の危機感とはまた異なるにしても、自分の行動を示せるのである。

 

様々な状況で誰がどういう動きをするか、自分はどう反応し行動をするか、これを体験できるのは平時と変わらない、言われたことだけ護るに徹する消極性が、どれ程危険で自分を追い込む行為化を実感できただけでも感謝したい程だ。

 

日本が過去の戦時でもあったように、陥りやすい集団行動や計画された情報発信に混乱する姿を、知識では解っていたつもりでも、実際に自分の行動にリスクを取らないと、いかに危険で他人まで引摺り込むか、行動して始めてよく解るのだ。

 

この貴重な体験で、多くの事を学べたと同時に、平常時とはまった違った決断や行動をするべきかもよく判るし、それ故にできれば生き延びたいという欲が出た。

 

命を張れるものに対してだけ護りに入ればいい、自身の行動には従来以上に行動し、そういう人びとを責めたり、邪魔をしたりしてはならないし、もしするとすれば自分の命の危機が起きる時だけだ。

 

人は追い詰められれば詰められる程、行動するものだと実感するが、今の空気の危うさとは、なまじ有事でないような変な安心感が漂いつつも、有事と同様の要求を強いられる不思議な感覚に陥るとわかるのも、体験ならではである。

 

世界経済や国や企業や組織にとって、その偏った安定化こそ最優先させられるものであるし、そこに個人単位の心安らげるものは皆無で非常な世界が、有事には当たり前のように思わされるのだ。

 

それを「はいそうですか」とか、「仕方ない」といちいち許容していたら、気づいたときには自分の居場所は、あれよあれよという間も無く減らされていくことは事実だ、という感覚も体験している。

 

現在とかつての有事の時代とは、情報の流通性に雲泥の開きができていて、過去はどちらかと言えば正しい情報を隠して、一方的な行動抑制をかけたことが知られているが、現代は世界で起きている現象がいつも筒抜けの中で、情報を混乱させストレスや疾病不安によって、行動抑制をかけている。

 

これは精神的にも肉体的にも、自分の拠り所を取り合う陣取りゲームであり戦争であって、何が声を上げて誰と助け合うべきか、それぞれの境遇で判断し行動できるか、そしてこのどさくさに誰がどう動いて、政府や企業が我々にどう投げかけてくるか、冷静に吟味してやろうと思う。