くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

宮城県に現れた気球、今さらアナログなテクノロジーは何を語るか

もう日が経って久しくなったが、宮城県上空に突然現れ滞空し続けた”謎の気球”の正体について、そろそろ忘れ去られそうなので敢えて蒸し返すが、正体が調べていまだ不明なのか、単に不明のままで終わらせたいのか謎である。 

 

 気になった筆者は関連ニュースを追っているが、仮説としてはだれが考えても二つで、一つは平和利用でもう一つは軍事目的、正体はそのどちらなのか?

 

テレ東の記事にアフリカケニアの疑似ケースが載っていたが、この線が最も無難な正体の一例だろう。

 

www.tv-tokyo.co.jp

「謎」の飛行物体がケニアに その正体は・・・|テレ東NEWS:テレビ東京

 

もう一方で、もう少し専門的な予測が下記の記事だが、ドイツの研究機関がアメリカと共同開発中の、高性能な通信ステーションではないかという、かなり具体的な相似例だ。 

 

 

asagei.biz

宮城県が「UFO」に認定!謎の「白い飛行物体」はドイツから飛んできた!? | Asagei Biz-アサ芸ビズ

成層圏プラットフォーム』だとする説です。通信や放送用の飛行船や飛行機のことですね。推進エネルギー源は太陽電池で、無人で1年以上の継続飛行が可能。アンテナ中継基地ですので、当然、定点滞空技術が搭載されています。実はかつて日本でも開発が進められていたのですが、諸事情で開発が頓挫した経緯があります。

 
ソース元が都市伝説系編集者とあるので、うさん臭く感じる諸氏も居るかもしれないが、この高性能な自立型移動体は十分現実的で、かつて日本が太平洋戦争末期にアメリカ急襲用に開発していた”気球爆弾”の応用の可能性は十分ある。

 

当時でもこの気球は軍事機密で、実際に飛ばされ季節風を利用しアメリカに届いているし、墜落していた気球に偶然接触した家族の被弾も記事が現地新聞に掲載されている。

 

ただ世はすでに終戦を迎え、最新型ジェット戦闘機が主力の時期であり、旧態依然の気球兵器が進化す機会は失せていた。

 

しかし、気球は仕組みは単純でも、地球の高度上空には大規模な東向きの大気の流れが存在しており、日本でも毎年春頃中国から訪れる”黄砂”もその原理の結果である。

 

日本に突然現れた気球の様な物体が、自立・移動機能を有した”半衛星”であっても不思議ではなく、意外に旧態依然の気球とは高コスパで国境や海を超えられる”今でも使える優秀な移動体”である事実はある。

 

この事実で我々が懸念すべきは、気球は移動に時間を有するため、飛ばした国や組織の特定や発進地点の特定がさかのぼって追跡できない点と、この気球においてはその後の追跡結果について見逃されている点である。

 

それぞれの問題は、前者では気球によって運ばれる物体は何でもアリであり、観光利用の客席から軍事利用の核弾頭まで運搬は可能であり、後者では不慮で見失ったのか意図的にそういうことにしたのかの点で、政府が不透明にしている点だ。

 

最悪のシナリオは、おそらく容易に想像つくだろうが、西側又は北の隣国から考えられる脅威であり、その匿名性からみればどこぞの無名組織のレジスタンスも十分可能だと言うことだ。

 

後日談として、戦後間際に飛ばされた気球爆弾のその後については、いくつかアメリカのジャーナリストや政府機関によって、その技術の応用の行方を調査されている。

 

その一つには、戦後アメリカで大きな話題となって、今でも日本でも都市伝説化されるUFOの墜落事件の原型が、気球技術継承によって米軍が進めていた某軍事技術のための人体実験の隠蔽ではなかったか、という民間レポートがある。

 

それはさておき、気球にまつわるエピソードは、ヒンデンブルグ号の悲劇にとどまることなく、今でも技術継承されながら現役のテクノロジーであり、我々に核兵器以上に幅広い脅威と可能性を持った見捨てられない現実だということだ。

 

その脅威や懸念の現況は、AIのシンギュラリティへのそれと全く同じであり、結局どのような優れたテクノロジーも、それを使う人間の本性次第だという、人間の存在証明にまで行きつくのである。

 

さあ最後に考えてみよう、この日本に現れた飛行体とは何なのだろう?

 

近く実現するであろう近未来を見据えた、世界規模の通信インフラ実現のどこかが始めた事象実験だったのだろうか、過去の例に沿う様にUFOが当時のアメリカ政府の横暴を暴くきっかけになった、今まさに隠されようとしている闇に光を当てようと現れたのだろうか。

 

申し訳ない、真実は永遠に闇かもしれないがただハッキリ言えるのは、そのどちらの未来に転ぶかは私たちの今後の行動次第であり、誰もが避けて通れない真実だということなのだ。