征くも地獄、戻るも地獄
ビジネス手法で、不安を拡散しておいて客を惹きつけ落とす手順があるが、これはマスメディアが大衆の意識を統制する際、古くから使われた方法だが、今更googleが禁止するこれの意味する事は?
7月17日、米アルファベット傘下のグーグルは新型コロナウイルスの陰謀論を唱える広告を禁止すると発表した。写真は4月12日撮影(2020年 ロイター/Dado Ruvic)
具体的には、1)新型コロナが生物兵器として中国の研究施設で開発された、2)マイクロソフト<MSFT.O>共同創業者のビル・ゲイツ氏が新型コロナを製造した、3)新型コロナは作り話──といった類いの広告が禁止される。
諸氏は日々無料情報の広告で、この手の煽りに気分を害したことも少なからずあるだろうが、googleが禁止したコロナウイルスにまつわる広告が、様々な目的で行われているだろうことは、うすうすお気づきだろう。
酷いのになると、発信元と禁止元が同一という自作自演もあったり、何を疑うって良いかもわからないままで、振り回されるのは大衆側である。
つまり、どっちに転ぼうが騙されるまで終わることはない。
物事の勝負は、勝ちたい側が相手が根負けするまで続ければ、勝つのである。
厄介なのは、勝ち負けの線引きが人の価値基準によって千差万別だと言う現実で、「勝つと思うな、思えば負けよ」と歌った日本の柔の精神は、いつになっても世界に理解されないかもしれないと絶望感さえ湧いてくる。
それはさておき、利権や人権が侵害される以上、いかなる疑惑があろうと、事実証明無しに個人団体を貶める行為は禁止されるし、それなりの徒労によって証明しなければならない。
そのルールを、破ればその先は中国共産党が自国主権を縦に、自治権を主張する地域を縛る行為を認めることにさえならないだけに、最後には相応の手間と金を準備できる者が保障される社会では、これ以上これ以下も無い。
我々が認めた社会は、金と時間を自由にできる者の意見が優先される仕組みになっているが、それに逆らえばそれを実践する唯一の勢力の参加しか選択肢は無い。
どちらを選んでも、それなりの覚悟と行動は必要で、その行動の結果生まれる恩恵と損失も自分で追うのだとすれば、あなたはその行動で博打の行動をするか、覚悟の行動をするか、それを常に自分に問わなければならない。
つい先日、未来を期待された若き俳優が自らの命を断った。
古い話なら「涅槃で待つ」と言い残して去った俳優も居た。
何かを言い残して命を断つ事に、どれ程の意味があるかは筆者には解らないが、この世に残って何かを残そうとする者にとって、彼らの残した言葉以上にその行動は、辛すぎる現実である。
日本人は、世が大きく動く中にあってこんな些細なことにさえ、考えてしまうのである。
考え過ぎなのか、思い過ごしなのか、それでも考える意味は何があるのか、兎も角
冥福をお祈りする。