こんな時期だから考えたい、今自分が居るのは誰のせい?誰のおかげ?
表題通りで、メディアは未曽有の環境下に置かれる中で、視聴者となんら変わらない目線で不安をあおる番組から、いまだ抜け出ようとしない。
それを見る見ないに関係なく、我々は一定数の不安を増していたり、鼓舞して奮い立たせようと、気ばかりあせって行動と思考が伴わない。
政府が悪い、環境が悪い、誰も助けてくれない、私は孤独でどうしようもない……。
もうだめだ、死ぬしかない……。
それを誰かが助けるか、本気で助ける気になるだろうか、なるわけない当たり前だ生きようとしない人は助けられないからだ。
そうでなくとも人と会えば弱気を口にし、気を紛らわすために金で一時の安心を得て、また明日になればまたその金を稼ぐために働くしかない……。
そんな人形の様な人に他人は注目し応援してくれるか?もう知ってるはずだ。
その人は人の強制による生活の毎日の中で、自分の存在や出口を見失っているのだから。じゃその時は、
家族、友人でもいいに相談する?
甘言を垂れる他人に身をゆだねる?
賢人の言葉に耳を傾ける?
いずれも、その善意だけでは解決しないし、それこそ不幸の上塗りだったり、一時しのぎでしかない。
そう、残念ながらその迷路に追い込んだ自分にしか抜け道は探し出せないのだ。
その抜け道を求めて、最悪自信を死へ誘う人が居るが、いろいろなことを考えすぎるのかもしれない。
最後の味方の自分で自分を追い詰めれば、それはそうなるだろうが、彼らとて他人が助けられるものでないし、例外は無い。
自分は誰でなぜ生まれてきたのか?それとも自分が幸せでないのは誰のせいで、幸福なのはだれのおかげなのか?
めぐまれない環境に育った者は不幸を呪い、不幸せに敏感になる。
恵まれた環境で育った人なら幸せに感謝し、永遠にと足り前に願う。
よく考えて欲しいのは、両者どちらも物心ついた時点では子どもであり、そのあと現実をどう解釈し、どう対処してきたかで差があっても、環境の優劣はあまり差にならないことを、理解している人は意外に少ないかもしれない。
現実に生まれ、意志を持った時点でそれ以上生きながらえるには、ここにその都度対処療法していくしかないのだが、多くの人が幸福な時間より不幸な時間の方にやたらと、拘り過ぎるのはなぜなんだろうか。
過剰に幸福を追いすぎて、現実的に得られない挫折感を、不幸と感じているのかもしれないし、人の不幸まで背負うのが親切だと誤解しているのかもしれないが、そのどちらも間違いで、無視しないと生きられない。
幸福の価値基準が金だったり名誉だったりすると、一方で家族との時間の幸福を後回しにした分、不幸だと思う機会が増えてしまうのかもしれない。
もし、それでも不幸な人が居て、家族のぬくもりさえ得られなかったとすれば、それは不幸なのかもしれないが、そんな人にも他人は無意味な価値を押し付けてくる。
だから不幸や不平等だと感じた時にこそ、自分を大事にしなければならないし、他人の幸福のために行動する義務を優先させてはいけないし、その間は誰の事を気にする必要は無い。
その考えや行為は決して不親切でもないし、それを止めてまで良い人になる意味がどこにあるのだろう。
自分の世界が1ミリでも実感できるなら、誰のおかげで生きてきたか、誰のせいで自分を犠牲にしなくちゃならんと思うのか?何日でも考えていいし、夜を明かしてもいいだろう。
そこまで不幸でないと思える人でも、自分が居るのは誰のせいで、誰のおかげなのかを、これも寝ながら考えてみるといい。
生きている限り不幸はあり得ない、生を受けたこと自体が幸福で奇跡だからで、その基準をどこかで歪ませたか・押し付けられたのなら、それが不幸の正体なのだろう。
寝て起きて、そして食べて……その当たり前の行為が実感できる毎日が、その積み重ねが幸福感の基本だと思うし、家族と助け合える環境があればなお幸運だ。
不幸を考える時間自体が馬鹿らしいだけでなく、幸せになる機会を自分から奪う行為に他ならないのだし、そうと気づけばもっと幸福について真剣に向き合える自分になっていると思わないだろうか?