アーカイブ:今のリアルすぎる映画小説は、創造の自由度が減っていませんか
たまにブログでもカミングアウトしていますが、筆者はブログとは別に小説を書いて公開いますが、今回は最近つとにリアルになってきた、映画や小説などの創作物について、書きたいと思います。
時代のニーズの移り変わりといえばそれまでですが、段々と小説なのにフィクションが許されなくなっていると言いますか、小説なのに、映画なのに設定がリアルでないと許されないところが多分に空気としてひしひしと感じるこの頃。
例えば、SFでもサイエンスフィクションとサイエンスファンタジーに区別されるなど、本来からそうである定義と、あいまいに許されていた許容部分が厳密になっていて、息苦しい世界になっている気がします。
そのSFっぽいジャンルで言えば筆者の好きなのは、 円谷英二監督のかつての名作である、ウルトラQや怪奇大作戦、洋モノならばアメージングストーリーなどの、現実と非現実の狭間の妙と現実に存在する、心理的な錯誤をさまざまな比喩のバリエーションは、とても想像を掻き立てられました。
アンバランスさというか、現実と非現実の丁度いいミックスされた奇妙な感覚が、夢があって面白かったのですが、こういったドラマの余白やのりしろが少なくなっているように感じます。
また、若年層に支持されたジャンルで、異世界転生をキーワードに現実と非現実を渡り歩く前提の、VRMMOなどと言った、マニアな新ジャンルもSFが厳格化されたために、その逃げ道として用意されているように思えて少し残念な気がします。
この傾向は、アメリカのハリウッド映画の影響も大きいのでしょうね、あれだけ莫大な予算を投入して、科学的考証を重ねてよりリアルに感じられる世界を作り上げてしましますし、ビジュアルについては今更言うまでもなく超リアルですから。
恐竜が出てくるアノ映画でも、本物らしくあれだけリアル(風)な動きを再現するために、製作当時での最新の恐竜に関する研究材料を駆使して居ないとリアルなビジュアルに説得力を持たせられなくなっています。
それゆえに、いつの間の間にか設定は厳密な科学根拠ありきな風潮がスタンダードになっていて、ストーリーやテーマが感じ取りにくくなっています。(勿論一流の作品はストーリーも良く練られていて素晴らしいのですが)
それはそれで、新しい表現だと言えばそうなのですが、筆者ほどの世代には少し息苦しくも思うのです。
映画の話しを中心にしてしまいましたが、小説でも基本は映像が無いだけで、話の筋立てをする際の影響は大きいと思われます。
現在世の中は、余りに情報が手軽に入って昔ほど想像で保管する余地がせばまっていますから、小説や文章を読む側も相当数の情報を無意識に求めてしまうのかもそれませんね。
ただ一方で厳密な中にも創作には、間の抜けた部分が一つや二つあっても笑って許せる、心のゆとりがもう少しあってもいいのかなぁ、と思ったりもします。
小説などの創作は、自分が満足すればそれで完結できるものと、人に共感してもらってこそ意味があると考える向きがあるので、どちらの立場を採るのかにもよりますが、前者でない限り、世間全般の心情は意識せざるを得ませんから、厳密さを求められれば、それを追わないといけない葛藤はあります。
ただ創作の原点にかえれば、せっかくの創作の世界です。作品のテーマを表現する幅を製作者自ら狭めるようなことの無いように、純文学のような枠にとらわれない自由さを、大事にして行くのはとても大事な事ですね。
文章を書くのは技術が必要です、はじめから上手い人は居ません。あの1Q84でもベストセラーとなった作家の村上春樹さんも自著の書き方ノウハウ本の中で、初めは下手だったと書かれています。
下手でも書いているうちに、自分の中の色々な発見があるのも事実ですし、それだけでも書いてみる価値は十分あると思っていますので、もし時間が作れれば是非気付いたことを繋ぎ合わせて、何となく小説風にしてみることをおススメします。
その発見自体がその人にとって、とてもクリエイティブな気付きそのものだったりするのですから、自分を見つめなおす意味でも、ぜひ自身の心のアンバランスな世界を文字にしてみてはどうでしょうか。
まだまだ途切れない、ナチス陰謀論の影
第二次世界大戦末期に本来絶滅されたとする中で、
今だまことしやかに囁かれる、
ナチスドイツのテクノロジーと財産の行方については、
まだまだ、注目されているようですね。
ナチス装飾品など大量に押収 アルゼンチン - BBCニュース
陰謀とされる、数多の歴史や経済、社会に散在する情報が、フェイクかそうでないかは、置くとして、
これらが出回る背景には、
私たちが到底辿り着けないリアルワールドが、
間違いなく存在することを教えてくれている気がしてなりません。
陰謀ネタの小説を書いている筆者には、わくわくものです。
それにこっち。
これは、結構有名な話らしい。
ロマンがあって小説ネタとして、史料もあるし単なるファンタジー
で無い、小説が書けそうですね。
UFO(未確認飛行物体)発見の歴史 日本でも江戸時代に「虚舟」が出現していた!? - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
OSの乗り換え:似て非なるもの
いまさらと思われるかもしれないけれど、
Macintoshのフレンドリーな「Hello」の起動画面を始め、
直感的操作を世に提供したときから、
良い意味で競争して、進化を今に引き継いだ。
Windowsユーザーの21%がMacへ乗り換えようと思う一方、MacからWindowsに乗り換えようというユーザーはどれくらいいるのか? - GIGAZINE
今では、2つのOSのシェア比は、大きく開いたけれども、
その両者がユーザー、に与える影響力やユーザビリティは、
シェア比に代えられないものになってるんだね。
しばらく遠ざかっていた筆者が i Pad PROの恩恵に、
あずかっているのも然りなんでしょう。
ジョブズは亡くなったけれど、
彼と共に見た未来の姿を、
もう一度、描けるような錯覚を覚えたのは、
ひとりじゃないってことでしょう?
iPad Pro 10.5 買って、使って、実感レビュー。
ここ数年でスマホ業界で、一気にシェア拡大してきたHuawei の幹部のコメントを読んで、感じたことが今回のテーマです。
「スマートフォンに4GBよりも多いRAMは不要」 ―ファーウェイ幹部が明言 - GGSOKU - ガジェット速報
彼は、もしくはHuawei 社のポリシーなのかもしれませんが、意味のないオーバースペックの是非を語っています。
昨今常識化している感のある、
ハイテク産業のオーバースペック競争
筆者も気にしていたことですし、同感される方も多いでしょう。
結構日本国内独自のニーズかと思ってましたが、
海外メーカーの幹部が言うくらいなので、世界規模での現象なんでしょうか。
確かにIT関連商品は、花形でありその分競争も激しいから、その帰結は是なのかもしれませんが、ここのパターンはやもすれば無謀な過当競争に発展しかねない、ある意味破滅的な競争になりかねない話です。
ここで少し話が逸れますが、こうした競争になりやすいのはどの業界でも言えることで、企業同士が単にスペック競争に勝てば業界を席圏できると、決めつけている例でしょう。
筆者がiPad pro 10.5 を買うに至ったのもこじつけでもなくこうした、
安易なスペック競争
に嫌気がさしていて、
何がそうさせるのか?
終わりなき競争はうんざり!
愚行に振り回されずに利用に集中できる製品は無いのか?
ずーっとその答えを探していた結果の一つだったのです
世にはガジェットフリークが多くいるように、
そうした嗜好を否定するつもりはサラサラ無いのですが、
それにしても、上の幹部のコメントは当に正論
だと、共感した次第です。
筆者の、シゴト道具としてのパーソナルアシスタントの理想のカタチの、一つの答えとして iPad Pro 10.5 は、使い勝手良いものです。
さらに重要なのは、その製品を世に送っているApple社の立ち位置は、過当競争とは明らかに異なった同社の創造した市場を独走していると言う事実です。
その企業が世に出すプロダクトの中で、
iPad Pro 10.5 は、さらに革新的なマーケティングによって生み出され、
新しくマーケットを切り開ける可能性に満ちたものです。
その可能性を存分に体験でき、
未知のタスクを創造していくモチベーションや、
将来の可能性を切り開いていけると、
久しぶりに実感できるプロダクトだと、
感じます。
小説:朝井リョウに関して
地元東海地方である、岐阜県不破郡垂井町出身の若手の作家、朝井リョウ氏も今年28歳だという。
大学在学中に直木賞作家最年少記録をつくったのは、彼の作家アイデンティティの核を担っているものの、ネットが普及し素人総作家時代と、揶揄差れる変化の激しい業界において、かれはどこに活路を見出しているのだろうか。
彼が、世代相応の等身大のネタを小説にしているので、有名になって久い中で人とは違った社会を観察する目線は、朝井小説の生命線であり、独自性と言えるかもしれない。
しかしそんな独自性を評価された彼ではあるが、その片鱗は中高という特殊な時代環境で、世代ならではの体験を中心に多くの経験からだと言う。
中高をランク付けされる大人社会に無い特殊な社会と感じていたらしく、目立つ人そうでない人から勝つ人負ける人までを、一括に矯正される縛られた世界だと見る彼の感性は、混沌としていた定まらない軸は、彼のお姉さんの「自分の表現をしろ」と言うアドバイスで一気にまとまったと語る。
彼はその時代での経験という引き出しを使って、同世代の抱える問題をテーマに、小説を書き小説家最年少デビューを果たし、社会派として認知される。
ただかれに言わせれば、その評価は本人とはかけ離れた、中高で味わった人を束ねる社会の縛りでしかないと感じていたらしい。
筆者の世代からして、中高での縛りと言う認識は、認めがたいが否定できないと言う、今更の後悔を指摘されたような、後ろめたさを感じずにはいられない。
たとえその指摘が的を射ていようがいまいが、素直に認めたくないのは、この世代が、戦後引き摺ってきた常識を肯定しながら、新しい考えを模索して答えを出せなかった世代だからであった。
私たちにとって大事なことは、朝井リョウ氏のような新鮮な視点に、素直に向き合える思考のゆとりと、それを原資にして今築いている社会的立場を活用して、可能性や多様性を広める役割を担うことかもしれない。
多感な時期に、縛りからの脱却を夢見て道徳に縛られない私小説も書いていたと言う、彼の小説家としての器は、社会のもどかしさと闘いながら、また巧みにその空気を嗅ぎ取ってかわしながら、彼なりの独自性を探る姿こそ、社会が縛ろうとする小説そのものを開放する道を模索するものであり、共感の外を目指す実験小説をマイペースで繰り出す、朝井リョウ小説の存在価値を、今後も大いに成長させて欲しい。