くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

起業家が巻き込まれないための「IT」

前回までに書いたことは何だったか……そう、


これからの起業・経営の未来はどうなって行くのだろう。

 

今回の表題に共通させた「IT(それ)」とは、何を指すのか、いよいよこの後半で明らかにする。

ITという表現に聞いた覚えは無いだろうか?

誰かの小説や、注目されている映画でメディアに出るので、知る人も多いはず。

 

筆者は他人の結果には無関心なので、この小説も映画も知らないが、妙にこのタイトルだけに惹きつけられた。

 

それだけこの単純な”それ”には広い解釈と深い意味を持っていると言うことだ。

なので、筆者なりのITを完結させたかった。

 

と言うか、企業の可能性を探るために乗っかったといった方が良いかもしれないが、

自分にとってはこだわりたいことだが、人にとってはどうでもいいことだろう。

さてここから下が、前回書いた前文の続きである。

 

 

スタートアップと言われる、有能な経営者や起業家が伸びつつあるチャンスの時期に、まるで狙ったかのように起きるネガキャンの数々は、ゲームとして見れる目が必要だろう。

 

現実を伴う災難から非現実なゲームステージを攻略するように、いちいち干渉されないドライな経営目線が、今後の経営トレンドとして世界は動いているとすれば、それこそ合理的な目線である。

 

これができない、またはしにくい日本の経営風土は無視し、実際にかかる問題以外はスルーしていい、この割り切りが経営者には不可欠だし、できない者は企業をファンタジーとしか捉えられていないということだ。

 

しかしそこで割り切れれば、まだまだ日本市場でも関心を持続できるかもしれない。

 

成熟しきったと言われる高度な先進国社会現象を、高度で素早い情報処理によって波に乗る感覚や、古い意識の世代には思いもつかない未知の感覚を実感し、それを感じ取れる才能を育てられる余地は、あると思えるからだ。

 

AIと5Gのインフラ普及は、どこが覇権を握るにしても数年後には実現する。

その情報収集や分析の高速化が自動化される時代に、人のその能力は意味を失ったと嘆いている暇は残されていない。

 

人が今できる行動は、最低限の情報から方向性を決断し、来る可能性を待つための攻めなのだ。

 

その気が失せないうちに実行するのは、AIの学習よりも多くのIT(それ)を学習し、変化を読み、どのリスクをとって行動するか。

 

その出来る範囲は、人によって様々かもしれないが、しないならその時点で答えは決まってしまうのだから、一歩でも進むべきだろう。

 

その大前提として肝にめいじて置くことは、結果を人になすり付ける様な旧態依然の政治家と同じ行動をしてはならない、ことだ。

人は生物で唯一、繰り返さない選択ができるのだからら。

 

重要な事実は「人が唯一」である揺るぎない現実だ。

仮に神が存在したとしてもこの現実には、今のところ一切干渉していない。

 

さも、干渉されているかのような被害妄想に苛まれたり、

事実を無視し続け、宇宙人と言う名の仮想敵を持ち出しても、現実逃避でしか無い。

ファンタジーとファクトと混ぜ返す行動の先には、破滅という現実が待っている。

 

それを誘う毒蛇の甘言には……まあ、構えずに気をつけようじゃないか。

 

人によっては、散々破滅への体験を強いられるかもしれないし、

一時的に宗教観や友人に頼らざるを得ないかもしれない。

その意味では、無駄や必要悪を残しても良い。

 

それでも、ゲームを攻略する感覚で受け入れ、自分と闘え。

皆は、それを耐えるべきことと、その後に待っている達成感を、すでに知っているだろう?

 

ゲームのタイトル ”IT(それ)” は、自分で決めるのだ。

そして自身のゲームは自分で完結させるべきだ。

 

このストーリーは、小説でもいいし、ビジネスでも同じだろう?

 

その達成感を味わうのが、

現実に、起業する大きな意味だと思えれば、

あなたのITのスタートアップは始まっている。

経営者が持つ、起業家を目指す有志が持つべき「IT」

この経営面での不手際として、敢えて批判するとすれば、もうすでに個人を責めて済む時期をとうに過ぎている、過去の遺物でしかなくなろうとしていないか?

 

それほど世界は、時間価値を高めるかのように急かし、過去の経緯をまるでゴミのように評価するかの様な動きを見せている。

 

この現象を直視するために、起業家の持つべき視点をよく見極める必要があるが、まずは資本主義経済のイロハをしっかり確認しておかねばならないと感じたが、経済学はあまりに難解で膨大だ。

 

ではキモとは何かだけでも知っていたほうが良いと、その点絞って見ればこの事件は当にその全てのヒントを網羅した教科書のような事件で、筆者はその視点で追い続けた。

 

 

株式会社とは、資本家であるパトロンの私物である以上、ある程度の公益性は犠牲になるのは避けられないにしても、公共への影響度を盾に政治介入が絡むとこうも歪んだ現象起こすと学べたことは、筆者には不幸中の幸いだった。

 

このブログでも何度もゴーン氏の行動と、日産や政府側の対応について追ってきたが、なぜ追わざるを得なかったかを、改めて書けば経営者おける、イロハレベのル基本的視点と行動力を問う話に戻らざるを得ないからだ。

 

ゴチャゴチャ言う前にゴーン氏の経営者としての資質は、極めて優秀だったにも関わらず、政治的都合で日産のテコ入れに政治介入して、純粋な企業経営に横槍を入れてしまったことが、日産丸難破の最大最悪の要因だと、認識してこそ意味を成す。

 

biz-journal.jp

日産、凄まじい経営悪化…ルノーによる経営統合&フランス企業化が現実味

 

日産と同じ様なことは、三菱航空機の国産初ジェット旅客機にも、恐らく同様の経緯が祟ったと見ているが、それはさておき日産がフランスの軍門に下る流れが避けられ無いと、今さら叫んでも遅い。

 

ここで考えたいのは、政治的介入の目的が純粋に日産丸の救済にあったのかと言う、介入動機の検証であるが、もしこれが単に一部の人間の個人的資産目減りを一時的に避けるためだけのものであったら、どうだろう。

 

こんな政治の都合で企業経営を左右させられる理屈がまかり通れば、投資家は企業をサポートしなくなり、経営権の魅力を壊すことになる。

 

このマネーの流動性を逆なでする企業価値の横取りは、アメリカ式の資本主義経済ではあり得無い暴挙であるし、経済ニュースで流される客観情報が、まるまる意味を成さなくなるのだからたまったもんじゃない。

 

それを政治家共は、無神経にやってしまうのだから、本気で経営に集中する機会を、奪っているとしか思えないし、その姿はまるで「かまってちゃん」のエゴそのものでしか無い。

 

この疑惑は、東北震災に絡む東電利権保全の一時しのぎに政治介入があったとされる疑惑へも再燃しかねないし、日本政治家の資質にさえ言及される問題へと、ステージ変わっていくのである。

 

経営者の目線はイロハで言えば、鳥の目魚の目でなければならないと言われるが、優秀な経営者を犯罪者に仕立て上げてまで、一部の目先だけの私物化する政治介入は、アメリカの自由主義とはまた異なった、中共政治のやり口とどれ程の違いがあるのだろう?

 

このままでは、健全な株式資本の経営は、ますます日本に根付くことなく、まともな経営者を駆逐し、いびつな資本主義経済を助長していくことになりかねないだろう。

 

国家の運営を国民目線とか、公益性に言及する視点は無くしてはならないものの、それ以前に企業経営同等に、国のパトロンである国民利益を優先する、政治の経営意識の歪みを世界の面前に晒したこの事件にも、現れている。

 

これからの起業・経営の未来の芽はもう摘まれてしまったのだろうか?

 

今回は珍しく長くなりそうなので、一旦ここで筆を置くことにする。

 

環境ビジネスに見る、オトナの起業リスクと可能性

商業では、子どもの純粋さや無邪気さのイメージを利用するのは基本中の基本で、誰もが可愛らしい子供が放つキャッチフレーズには目尻を緩ませ、真剣に訴える姿には心うたれてしまう。

 

ところが、彼らを広告塔に使う側では、もう何十年も前からその子どもたちの、無垢な姿から学ぶべきものを忘れ、上から目線で搾取しかしない態度の風潮が、標準化されてしまったようだ。

 

courrier.jp

“グレタ叩き”に19歳の活動家ナオミ・ザイブトを利用する米保守派組織 | 「そもそも、気候はずっと変化し続けています」って… | クーリエ・ジャポン

 

例のグレタさんの可能性に、オトナは金の匂いを嗅ぎつけてむらがり、今度はMARVELのバトル映画よろしく、新たに宿敵を投入したようだ。

この展開は当にMARVELムービーのそれであり、もちろんエンタメとしては世界の刺激を求める視聴者には、期待いていた展開であり、注目度をあざとい程高めるモノだろう。

 

このような記事を書けば、筆者さえも便乗したことにされても否定できないが、ここで記事にするのは子供の存在を商用化したり、一方で虐待や少子化と言う物理的な弱い者イジメをすることに抵抗がなくなっている風潮が、解せないだけである。

 

 

グレタさんもナオミさんにしても、始まりはオトナたちに気付きと行動をしてほしいと言う、純粋な正義感から行動しただろうし、その願いをオトナは曲解して、世間の厳しさを躾けるかのように、利用しようとしている。

 

数日前何かの記事で、マララさんとグレタさんのツーショットを見たが、筆者は彼女たちの誇らしげな笑顔に本来の希望を見ることはできず、哀れさを感じずにはおれなかった。

 

かつて、ある宗教的な社会感が疑うべくもない常識だった時代に、一部の科学者が人間が立っている大地が回って天は止まっていることを、証明してみせた。

 

事実を素直に見識し、正しいものをより正しくしようと行動する、子どもたちのオトナの呪縛にまみれない純粋さは、オトナが最も学ばねばならない宝である。

 

ついでに先の宗教観を借りれば、アダムとエヴァは子どもであり、迷わせる蛇はオトナだと言えるかも知れない。

 

アダムとエヴァは、神の次にこの地に生まれた人の原型であり、神に最も近い存在であるなら、彼らにその声が届かなくしたり、よもや迷いを囁くなどは、人として自殺行為のまやかしなのだろう。

 

子どもへ善人の面でウソを囁やき、仮面の奥の姿を偽ろうとする亡者が居たとすれば、それは無神教者や共産主義者でも無い限り、自分の宗教観を汚す行為に他ならない。

 

オトナが始めた誘惑やまやかしは、その後人類の未来を豊かな楽園から追放し、荒れ果てた僻地へと追いやる結果として、「穢し」の伝統が引き継がれてしまったのだろうか。

 

オトナの子孫は、お金を作り、権力を生み、未来の砦である子どもへの搾取に手を染めた。

 

その後、オトナは私益のために、時には子どもを売り、犯し、殺して死体さえ利用してきた、おぞましい生物として生きるための歴史を持っている。

 

子どもは、彼らにとって未来の希望では無く、金の流れを生み出す添加剤としてしか意味を成さなくなっているのかも知れないが、それでもビジネスの知恵は物理的搾取を避ける手段として、有効なヒントにもなり得る事も学んだはずだ。

 

ただビジネスを起こす時には、少なからず子どもの可能性を貶める反面があることを、我々は十分配慮して行動しなければならないし、本来の神の称賛の声に叶っていない言えるだろう。

 

「綺麗事だけで、成功すれば苦労は無いよ」

 

オトナの都合にどっぷり浸かりきった者には、一見もっともらしい定型句だが、いい訳でしかなく、すでに未来に対して背徳する言動に他ならない。

 

純粋な理念は公言すればするだけ、ケガされむしり取られていくものだ。

 

賢い起業家になりたければ、

その現実から子どもの心を自分の意志で大切に護り、

しかし決してブレない知恵を知っておかなけれならない。

 

この意識は、信教者はもちろん無神教者であっても、またこれから正常な起業をする者にとって、イロハのイであり、どんな起業ノウハウより最優先すべき真理ではないか?

 

純粋さを無くした起業心では、モチベーションは続かないし、

真新しさを失った使い古された理念では、スタートラインにさえ立てない。

 

宝である子どもの心を護り育てる努力こそ、

最後に残されたブルーオーシャンへの道と思えないだろうか。

”アキラ”の描いた近未来が当たっちゃった!今そこにある危機の病?

いま、都市伝説ファンの間で、今起きている東京をはじめとする日本の現況を、大友克洋氏の代表作「アキラ」の展開と重ね合わせるちょっとしたブームが起きているが、著作者ご本人も、戸惑っていらっしゃるだろう。

 

ちょっとした創作活動をした人なら、容易に理解できたり、もしかしたら実体験をされた人も居るかもしれないが、往々にして起きる現実であるし、大友氏のような有名人だったりすれば、話題になるだけのこと。

 

このようなケースは、筆者の好きなその他の漫画家では、浦沢直樹氏の「BAT」にも同じことが起きていると言っていいし、これも偶然だと思っているが、少し想像力を延長すれば、偶然とは思えなくなってしまうのだ。

 

コウモリが象徴として人を導いたり、人類絶滅へのシナリオなど、被るところは多いのだが、こちらがなぜか話題にならないのは、この後もっとハマるようなアトラクションでも控えているからだろうか???

 

 

それはさておき、こうした近似性を満たしたのが、たかだか日本のマンガだったから、この程度ですんだかもしれないが、これが世界的にもっと知名度のある人物がインフルエンスしていたら、もう神レベルの天啓と扱われかねないのだから処置なしだ。

 

しかし、冨野由悠季監督の意見は、そういう創作から見出すべき持論を明確に解説しているものの、多くの創作物は意図的な伏線を多く張るという、ファンタジーの性格からも仕方のないことで、なかなか真意や根拠が原作者自ら語られることは稀である。

 

gendai.ismedia.jp

富野由悠季が語り尽くす、21世紀の日本人が克服すべき「呪縛」(富野由悠季,部谷 直亮) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

ただ、この伏線は過去の出来事や創作物からのコピーであり、その組み合わせが違うだけであって、組み合わせ方で創作者の力量をアピールしているにすぎないが、厄介なのはその流れに真実の匂いを現わしてしまうことだ。

しかし、これはあくまでインフルエンサーが”文系”の意識で捉えた場合であって、根拠が創作のファンタジーは、”理系”の意識で見れば、事実を根拠としていない創作は目にも留められないのが普通である。

 

その創造性は日本人に健著で、自然現象や物にまで神を想像してしまう繊細な感性を持っている分、自然現象に意味を見出し、偶然を必然と解釈したり、そこに神や悪魔などの偶像を創り出してしまうらしい。

 

大友氏や浦沢氏は……故手塚治虫氏さえも、そういう繊細な観察眼で創造の翼を広げて、目の前にすでにある未来の種をマンガとして表現できるのは称賛されることではあるが、たとえ特別な才能ではあっても、現実は決して予言者や超能力者として観るようなものではないはずだ。

 

 

究極の合理化システム、深センの近未来産業の姿

WIRED,.pで見た、アジアの最先端技術都市で起きている、深センテクノロジーの進化の姿は、衝撃的でセンセーショナルな内容だった。

 

 ※動画のリンクを逸してしまった、参照今回はリンク無し。

 

 

中国はが新型ウイルス拡散国として、多くのバッシングを受ける今、この話は多くの人に無視されるか後回しにされるだろうが、こういうときこそ頭の遮眼帯を外しモノを考えるべき絶好の機会であるし、防御のみに囚われず攻めも防御なのだと実感できる好機である。

それはさておき、深センとはご存知の通り中共政府の国策の一環で短期間に国家予算を集中投資され作られた、リアル近未来の実験都市である。

 

ここで実践されるのは、多くの中国都市・地方の風景とは想像すらつかない、国家の理想郷構築において、政治以外のありとあらゆる経済発展有効なトライアンドエラーである。

その中では、単なる近未来インフラやプロダクトの開発というだけでなく、中国らしい西洋経済圏ではタブーとされる商的概念そのものの再構築も含まれている。

 

今のところ世界の経済活動は、アメリカがイニシアティブをとって、権利と誘導によって生まれたトレンドに沿って、他国がその流れについていく事が大前提なシステムで整合性をとっていた。

中共政府は、自らの権利の永続性を保証させるために、根本的な仕組みそのものを書き換える、暴挙に出たが、その技術的根拠を確保するために深センを作って、巨大な近未来の展示場として世に知らしめているということなんだろう。

 

日本政府の一部が、アメリカ忖度の安全リスクを負ってまで一定数の中国忖度を表明しているのは、こうした新世代勢力へ、抗えない日本特有の忖度バランス感覚故の判断とも言えるのだ。

もちろん個人的動機で中華に拘らざるを得ない連中いるだろうが、そうまでして忖度させる中共戦略には、日本が本来目指したアジア経済圏の独立という遠大な夢の実現とも絡んでおり、一時的に国民を危険に晒すリスクとのバランスもあってのことだと、筆者は考える。

 

この是非や事実かどうかの是非は触れないが、ここでは日本が汲み取るべき、深センが担う技術的な優位性以前の戦略性について書くと、そもそも中国がプロダクツ製造において叩かれる「パクリ」製品へのこだわりが、尋常ではないという点である。

これは、単なる商的モラルの低さと、経済ルールを無視した私欲的な先進国として不相応な意識として捉えると、大きな落とし穴にハマることになることに気づいた。

 

パクリやコピー商品で中国を責めるなら、日本が行った現実は無視して良いのかという原点に立ち戻らざるを得なくなってしまうし、その思考に生産性は無い。

一方で、その日本がしてきた産業発展の最短コースで培ったノウハウは、深センでさらに進化を遂げているということのようだ。

 

その真髄は、パクリをシェアと置き換えて、世界的に人口現象施策が進む一方で、多様性が更に要求されるであろう金未来市場を制覇するには、投資して得たパテントや最新技術を共有し、競争を加速させながら、縮小される市場に製品を提供していく究極効率化をはかる奥義とも言えるのだ。

 

 日本が高度経済成長期に構築した生産性の効率化と、狭い予算範囲で最大限の経済効果を生むノウハウは、ジャパンブランドとして確立できた実績は、日本の貴重な成果だ。

 

これからの時代新たなフェーズに入る中で、単に製造工程の効率化だけで闘えなくなる経済戦争下で、中国が知財資産の積極的共有による、産業の効率的な‘’使いまわし‘’は、西洋国への余計な忖度を減らし、日本にとって実りの増える独自の立場を示す好機。

 

深センの成功がどこにあったのか、ウイルスよる経済悪影響を、一種の兵器として捉えたリスクによって深センが負った失敗を、日本がどこまで学んで自らの血と肉とできるか、試されていると言う意識と行動が、重要だろう。

我々は、何のために貯めるか

今進行中のウイルスパニック、これは単に人的災害だけで無く、経済的混乱も含めて意味するパニックが起きたことで、消費行動が減り景気は冷えこんで、頭の中はより安定した備蓄のことばかりに関心が高まる。

 

特に日本ではその傾向は顕著で、我慢で数々の災難を乗り越えてきた経験値が、かえって本来動くべき時にそれをさせなくしている悪循環の方が、むしろ危険かもしれない。

 

toyokeizai.net

大混乱を回避、台湾の知られざる「マスク事情」 | 中国・台湾 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

台湾は先に、最低限のリスクを負ってから、国内経済つまり内需拡大によって、国民に安心感を得られるようにしたと思われるが、日本政府の判断が誤っていたかどうかと言うより、国民感情が従来から持っている、現実的な安全よりも一時的な安心感を求める意思に、政府は言われるがままに対処したと考えた方が、腑に落ちる。

 

いみじくも、東京都知事が使った安全と安心のリスクのとり方を誤ると、結果がどっちに転ぼうが、振れ幅は桁違いに膨れ上がる事が、わかってきた。

 

この後台湾の結果で、今回の答えがハッキリするだろうが、今回の災難で証明するまでも無く、過去の歴史がすでにその事実を証明してしまっている。

 

安全とは極めて物理的なもので限度があるが、安心は無尽蔵に感情的なものだから、ごまかしがいくらでもできてしまう上に、一時的な安心感のために安易に飛びつきやすい。

 

安全のために貯めるのか、安心のために貯めるのかでは、備蓄品の使い方にも雲泥の差ができるということだ。

 

人は安全を確保するために、現実的に可能な限り備蓄をすれば良いものを、不安感情を焚き付けてそれ以上に安心のために、無謀にリソースを浪費してまでも、安心と言う不確かな精神安定剤を貪ろうとする。

 

それを煽るとメディアを責めるのもいい、安心を逆なでする政府に罵声を唱えるのもいい。

 

ただ、もう一つ。

自分へ心理の行動について、見て見ぬ振りをしているのなら、いつになっても次々と膨れ上がる安心感への要望を満たす事はできないだろう。

UFOの次はゾンビ?最新トレンドを裏切らない現実逃避のシンボル

UFOを高等生物の乗り物に限定しやすい傾向は、日本人だけでもなくその他の国の自称目撃者にもあることだが、それ自体信じない人たちにとっても1種の奇跡としての産物だろうし、ゾンビも同様に時代の社会背景が生んだ「希望や苦悩と現実の理不尽」の間を埋める緩衝材が必要なのだろう。

 

他にも日本人がパワースポットを好んだり縁起を担いだりするのもそれで、ただそれは独特の精神性や創造性を反映している一方、深刻な依存体質が大きく影響していたりしているのではないか?

 

現実を生きる我々にとって、少しでも早く依存から脱却し、自主独立を目指ていいはずだが、日本人はその現実に対する表現に極めて消極的で、「融和」や「おもいやり」「事なかれ主義」など、日本人の気質を美化・皮肉った言葉で言われる、日本独特の概念として定着している。

 

その背景には、根幹的に依存すべき宗教を持っていないことや、仏教は時代の政府の都合で押し付けられてきた事情や、神教をつかさどる天皇でさえも、ある時から依存対象として外され、現人神とされた後はその信仰力を疑われさえされている。

 

しかし私たちも人の子であり、特に被支配層の中には「依存したい」「信じたい」という、強い願望を満たす何かが必要なのだがが、これと言った決め手に欠けている。

 

そこへきて、日本だけでなく世界中で目撃されるようになったUFO現象は、当に渡りに船でツボだったということで、要は信じやすい人たちは心が不安定になったり、現実を回避できなくなった時に、苦渋の選択として現実からの衝撃を和らげる何かを求めた、その一つが「UFOは宇宙人乗り物」説だった。

 

日本人が信じやすい「UFO」現象を信じる場合には、いろいろな条件が必要なことが多いようだ。

 

・UFOは外宇宙の知的生命体の乗り物でなければならない。

・必ずその時代のテクノロジーを凌駕するスペックでないといけない。

・見た者は、特別な人として扱われる優越感が与えられ無くてはならない。

……

 これは、時代の支配層と被支配層との関係や、叶わぬ願望を満たすために譲れない条件だったのだろう。

 

UFOの存在化は、宗教ほど重さや縛りがなく罪がないし、最新のUFO情報は、その時代時代の期待を裏切ることなく、トレンドのファッションの様に不思議と目を逸らさない魅力と、飽きが来ない都合よさもある。

 

海外でも本家アメリカは、マニアの海外クリエーターも少なくない。

例えば、クリス・カーター氏だ。彼は「X-Files」の監督で、ネイティブ・アメリカンの持っていた東洋人的思想文化に傾倒していたこともあってか、彼はその作品中にその真実を示していた。

 

「I want to believe」

 

主人公のモルダーが、自分のFBIオフィスに貼ったポスターに書いてあったコピー。

これも、日本人のUFO信仰に近い願望そのものではないか。

 

この言葉は、ドラマのなかであざとい位頻出しており、ドラマはモルダーのその願望に応えるかのように展開していった。

 

しかし結末は、すべて曖昧にされ、自分さえ精神障害や自己犠牲という現実なのだ。

 

それでも「そこにある真実」を異常に追い求め、周りを巻き込みながら更なる自己犠牲をもろともせずに、突き進むのである。

 

この精神疾患のような行動は、最愛の家族が理不尽な失踪や死を目の当たりにした彼の、葛藤ゆえの行動に過ぎないのだが、周辺は執拗なまでに追い詰め、現実の罪を彼に押し付けていくのである……実におぞましい現実を比喩している。

 

UFOやエイリアンは祭り上げられ、壮大なペテンの道具として人類を、ある方向へ誘導していくのだが……現実主義者はすぐに気づくだろう。

もしこれを実行するならば、どれだけの予算がかかり、その割の合わない見返りの小ささに、筆者が陰謀の実行者であってもすぐ損切りするだろう。 

 

 それを示すまでもなく、よもやモルダーを自分に重ねてみる人は居ないだろうが、まだ自分は何かに影響を与えられると思い込むのは、今すぐ辞めた方がいい。 

 

 

そんな都合のいいファンタジーが世に出る前にも、作られた依存性は存在しており、世界的に知られているのは、大東亜共栄圏の理想と現実である。

 

その結末では、日本は「特攻」という、日本精神を過度に捻じ曲げた思い込みを、利用され実行されてしまった。

控えめにいえば、人の命を生かすための自己犠牲としての意味もあるので、無意味では無いにしても、その犠牲はあまりに大きすぎた。

 

信仰宗教の教祖や、度を超えた共産主義自由主義者にしても大同小異で、度を越した言動は自分の思い上がりからくる、思い違いに過ぎないし可能なら、目を覚ましたほうがはるかに自分の人生に有益なはずなのに、自分で自分を追い込む習癖が、愚かな行動をしてしまう。

 

心理学的にはその答えは出ている、上に書いた通りだ。

だまされたい、信じたい心理を、利用されないようにはしなければならないし、

慣れてしまえば、その子供の様な願望は夢から覚めるかのように消えるはずだ。

 

そしてもっと自分の人生にとって、有益な行動に時間を割くべきなのに、本来からある人間の本能や判断行動をしない人は、数字を根拠にされる偶然や創作された危機を真に受けたり、その分本来見るべき事実を見落とすことになる。

 

そのチグハグさに危機感や、気持ち悪さをおぼえる人は、自分が何を信じてしまうのかを、その場で真剣に思い返す絶好のチャンスであって、何をおいても優先すべき生き延びられる人に備わった、本能的な知恵だろう。