くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

一方的な「陰謀」が起こす功罪

Youtubeを頻繁に視聴している方は、ご覧になったことがあるかもしれない。

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「アイ アム フセイン」と聞いて、あなたが思い浮かべた人は?12月10日は世界人権デー。人種や性別じゃだけじゃない、“名前”という差別の存在 実話をもとにした動画「アイ アム フセイン」公開|株式会社グッドマンサービスのプレスリリース

 

この団体が流す広告は、私たちが普段何気無く見たり聞いたりするメディア情報の弊害を皮肉った問題提起をしているようです。

 

この例で補足をすると、ここに出てくる人物フセイン氏は、フィクションですが、実在し米特殊部隊に暗殺されたサダム・フセイン氏にかけていることは、容易に想像できると思います。

この氏の起こした経緯と結末に関する情報は、当時のメディアによって私たちの認識では「悪党」「憎むべき人物」とされている人が多いと思われ、もちろんくろまもその認識でいます。

 

当時から、そして今もこの歴史の事実関係には疑問を持たれる向きもあって、今更ですが私たちの認識が正しくないかもしれなかったと言いたのでしょう。

つまり、本来なら私たちには当時の理解として、

①報道メディアは正しく、事実だった。

②報道は作為的で、断定的すぎた。

 

という、少なくとも2通りの選択肢が私たちの判断に任されるべきだったのではないかと言う疑問と反省です。

 

特に日本国内では親米国だけに、アメリカの情報は正しいと暗黙的に信じることが多いようですが、確かに多くはその通りでしょうがそれの度が過ぎると、同名の他人が言われなき差別を受けるように、言われるまま信じそれを常識化してしまう危険性があって、恐ろしいと感じました。

 

私たちは、危険を回避する為に関連情報をメディアから拾って、それを参考にせざるを得ないのは避けられませんが、情報が氾濫する時代になってから結論だけを聞きかじってジャッジを下すだけでは、誤る危険性を無視してはならないと言うことなのでしょう。

 

くろまは、一般で「怪しい」と思われる情報はわざと「陰謀」と明記して記事にしていますが、実際のところ実際の陰謀論者はそんな解りやすい情報の流し方はしないでしょう。

 

怪しいと感じたり、内容が文字通り事実っぽくなくとも、それが生まれた歴史や事実の隠喩として検証する姿勢は最低でも必要だと思いますし、一方事実だと直感しても盲信するのも危険であり、いちいち読む暇が無いとかあるかもしれませんが、完全無視するのは自殺行為になりかねません。

 

次から次へと繰り出される、真偽織り交ぜた情報のシャワーに、私たちの神経がいつ崩壊するか知れませんが大事なのは、

 

自分から嗜好や主義だけで情報の入り口を阻む行為は、極力避ける。

他人の判断だけに頼らない事、自覚と責任を人に押し付けず自己解決する。

 

この教えを実行するには、かなり強い統制意識と堅固な自己意思を持つことが求められますが、自らどツボに追い込んだりトラップにはまらない最低限の知恵であり、自分にも他人にも過度な負担をかけないための知恵でもあります。

 

紹介記事のような偏見や様々なハラスメントに、身の回りで起こったり関わっていると感じるならば、自分を表面上取り繕わずに自分に正直に生きることが最も単純な解決策かもしれません。

他人を傷つけることで相対的に自分を現実以上に良くみせ過ぎる状況はありますが、それを正当化するために他人を傷つける罪以上に、自分に不相応の負担をかける悪循環に陥るだけでも避けたほうが賢明でしょう。

 

生理的・本能的に、一旦偏見を持ったり攻撃するのは人ならば当然ですし、誰も責める資格はありません。

一方で、自分がそれを一時の誤りと気付いてそれを正す行為も、誰もが責められるものでもないわけですから、そんな時でも普段から自分に正直に生きていれば、早く自分を許せるし余計な心配を減らせます。

 

日本人は、ボランティアとかの自己犠牲や義務に対して、妙に意識したり形式張った考えをしがちのようですが、これは人が作った宗教を持たず自然から教訓を学ぶ人が他国に対して多く、宗教を持つ人の性悪説から律したり縛られない分、性善説から自ら律したり謙遜でコントロールする習慣がある分、善意の自己抑制が過大に働いているのかもしれません。

 

この問題への落とし所はとても難しいですが、自分の素直な行為が結果的に差別や偏見と取られるリスクより、自分を正当化し偽るために人を利用する方を選ぶのならば、“もっともらしい人が言う”自由や権利なのかもしれません。

ただ、自分を偽って得た自由と権利は、知られれば誰もあなたを信用しなくなるし、それを承知でなら自己責任の範疇でもあるでしょう。

 

最終的に、自分を騙しているかいないかの自己判断はとても難しいと感じるように、人から見ても、自分が騙していると見られるとさらに難解になるリスクを考えると、

自分を偽らないことが、結局は自分にとって楽で前向きに生きられるのではないでしょうか。