くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

民間初の月旅行? アポロは月へ行った・行かなかったの論争について

都市伝説・陰謀論の話題では、この論争は避けて通れないほど有名な話になってしっまていて、さんざん論議しつくされた感もあるものの、自称陰謀論好きなくろまにとって、ここで持論を書いていきたい。

 

amview.japan.usembassy.gov

アポロ11 号月面着陸ミッションの記録 « American View

この真偽については、ネットでググればはいて捨てる程?様々なご意見が展開されていて、さまざまある記事の中であえてくろまが選んだのは、上のサイト記事。

 

持論としては、彼らは月に行ったと思っている。

 

ただ、その後何度もアメリカは月へアポロロケットを飛ばしていることになってはいるものの、そのすべてが記録通りに月に行ったとまでは思っていない。

根拠は、これら巨額の国家予算(または私的投資)をつぎ込んだわりに、結局何の見返りも起こっていないからで、単に国のプライドや威信・月へのロマンのために捨て金にするには、中途半端に渡航回数が多すぎるからだ。

 

だからといって今更どれが本当でどれがウソなのかを、いちいち検証するつもりもないし、検証してどや顔するのもどうかと思っているほど、その真偽を追求する意味は今更ないと思ってもいる。

 

識者でも、人が月までたどり着く前に、大量の放射線を浴びるので正常な身体で戻れないと言い切っていたり、バンアレン帯がどうの、酷いのでは月にはすでに別の人類が生活してるだの、数限りないネガティブシンキングがわんさか出ていて、陰謀論者の自分でもうっとおしくなってくる程、言いたい放題だ。

 

しかし、上の和訳記事を読んで素直に実感したのは、彼らは明らかに感動している事実であり、地球上とは違う様々な五感での違和感を経験した様は、しっかり伝わるのだ。

 

つい先日、民間初で「月に行く男」として、ZOZOTOWNのCEO前澤友作氏の発表を聞いて、この話題が再燃するのではないかな、と感じて記事にしてみました。

 

実際行ける派と行かせない派に分かれると思うが、成功すればこの論争に終止符が打たれ、様々な陰謀論に決定的なデマが多数浮かび上がることになるので、これはこれで楽しみでもある。

 

アポロ計画の目的には、アメリカ政府やNASAだけでなく、USAF(米空軍)も関与している通り、軍事目的が少なからず盛り込まれていただろうから、当然お約束の様に公開できないアレコレはあるので、公開しないと言ってキャンキャン吠えるのは筋違いであり、彼らからすれば、「真実を知りたきゃ身銭はたいて行ってくれ」という論理は十分成り立つので、実際身銭を切った側が「行った」と言えば行ったのだろう。

 

「何を言うか!この計画には国民の税金がたくさん投入されているんだぞ」

 

とまくしたてる諸氏もいらっしゃるかもしれないが、アメリカの国家予算はそもそも合衆国は巨大な株式会社の集合体みたない特殊な組織なので、税金のいくらかを国の都合で公的以外の目的で利用するのは合法だと思っている。

もちろん最低条件として、議会の合意・承認あっての話だが、事実問題なくパスしたからこそ実施されたのだ。

そもそもこの計画には、スポンサー側の利益は保証されていても、国民への利益は何ら保証されているわけではないし、国外の人間にとっては論外であり、とやかく言える話ではない。

 

アポロ計画のよるミッションは、月への往復と人類初の「行ってきたぞ」という事実を残しただけで、公にされた見返りも無くかつ、周りが空想するほど夢もロマンもない殺伐とした超現実的な技術的な性能実験と、地球外環境での観察実験以外の何物でもなかったということであり、我々目線では案外月には行かずにあれこれ空想とロマンに浸っていた方が、よほど経済効果とか見返りが大きいのではないかと思っている。

 

まあ、実際に月へ行ける可能性が極めて無いに等しいだろうくろまの、犬の遠吠えのような結論になってしまうのだが(泣)、これが現実なのだから仕方がないけれど、さて

 

さあ、民間組織による、新たな月ロマン伝説がどのような結果になるか? 

 

大いに空想しながら楽しもうと思う。

むしろ遅いくらいの、2018年末・年始に向けての経済短観

毎年秋冬と、来年につながるこの時期は例年景気は上向き方向へ動くと聞いているが、今年はいろいろミスリードもあったりで、非常に先読みしずらいエピソードが後を絶たない。

 

この手の要因として最も目立つのが米大統領トランプ氏の奇行にあると叩く記事を多く見受けるが筆者の見方は少し違っていて、その奇行???を盾に大幅な経済構造の変更をすすめる大きな動きが働いているように見えるのだ。

 

トランンプ氏の政策は、その最もわかりやすい片鱗に過ぎないという発想だ。

 

かつてない彼の、保守的な経済連携を根底から変えると見られるこの動きに、ピンポイント的な見方をしていたら、おいていかれることは必至で大胆な構造変革を見落としかねないだろう。

来年に向けて着々と進むこの動きは、アナログ経済からデジタル経済ベース化への大幅な更新を図るもので、表面上は見えにくいソフトウエアの大幅刷新であり、いよいよアナログ経済との決定的な離別を示している。

それは、日本で言えば平成から次の年号へ変わるのとちょうど符合する時期にあたるが、これは偶然の一致とは思えないタイミングにも見える。

 

それが具体的にどのような結果を示すものか? 我々には想像の域を超えないが、人にとってより生きにくいものになりそうな予感がしてならない。

 

人には、変化をより柔軟にとらえ価値観を常に変化させる能力が要求されるだろう。 

よりデジタル的発想が要求されるのではないか?

AIとの協業は最低限避けられず、仕事において大きな意味で人あまりが起こる。

 

一見、今更誰でも知っていることと一笑にふすようでは、この先ついていけなくなるほどの変革が今起こっているのであり、

 

結果が描く近未来像がより具体的イメージ出来る人は意外に少ないのではないか。

キチンとイメージ出来る人はより緊張感を持ちつつより前向きに行動するのだろう。

 

これは自分も含め例外ではない、大きな課題。

 

この大変革は、今のところ私達にはなんとなくと言った、ぼんやりしたイメージにしか捉えることはできないほど、虚ろな変化にしか表現できないが、遅くても数年後にそのアウトラインがはっきりして来る頃には、ギャップ萌えならぬ「ギャップ萎え」に、人生観を大きく変えざるを得ない人々がゾンビのごとく闊歩し、遅まきながらメディアによる「後から解釈」によって、さらに混乱をきたす人々が山積するのはお決まりの流れで、それほどの変化が起こると考えた方が良さそうだ。

 

この、現状ではとてもわかりにくい大きな変化を、特に国内では情報が得にくいが追い続けなければならないし、最低でも根本的な履き違えは避けたいものだ。

我々一般庶民に準備できることは限られているものの、感覚をよりニュートラルにし、神経を研ぎ澄まし、裏をかかれないよう細心の注意を怠ってはならない。

人それぞれで、出来ることには限りはあるだろうが、心の準備は万人に出来るのだから遅れは取りたくないものである。

 

これからの時期の年末年始は、我々庶民にはイベントや娯楽が目白押しの時期である一方で、より緊張感を維持しながら大きな変革のヒントを掴まねばならない、例年とはひと味もふた味も違った注目の時期になるだけに、その時代を後悔の無いように集中して過ごしたい。

 

最後に。

トランプ氏の言動は、変革未来時代を生きる上でのビジョンや、行動指針を作る上で思慮深くとらえ多くを学ぶと同時に、単なる拒否が正当化されて良いものではない気がしてならない。

 

人として全うするとは自分のなかで、

 

「理性(第ニ)が、感情(第一)を上回っている」か?

それを常に冷静に測れる「第三の目」を持って行動できているか。

 

それに尽きるように思う。

年末に向けての経済短観

毎年秋冬と、来年につながるこの時期は例年景気は上向き方向へ動くと聞いているが、今年はいろいろミスリードもあったりで、非常に先読みしずらいエピソードが後を絶たない。

 

この手の要因として最も目立つのが米大統領トランプ氏の奇行にあると叩く記事を多く見受けるが筆者の見方は少し違っていて、その奇行???を盾に大幅な経済構造の変更をすすめる大きな動きが働いているように見えるのだ。

 

トランンプ氏の政策は、その最もわかりやすい演出に過ぎないという発想だ。

 

かつてない彼の、保守的な経済連携を根底から変えると見られるこの動きに、ピンポイント的な見方をしていたら、おいていかれることは必至で大胆な構造変革を見落としかねないだろう。

来年に向けて着々と進むこの動きは、アナログ経済からデジタル経済ベース化への大幅な更新を図るもので、表面上は見えにくいソフトウエアの大幅刷新であり、いよいよアナログ経済との決定的な離別を示している。

それは、日本で言えば平成から次の年号へ変わるのとちょうど符合する時期にあたるが、これは偶然の一致とは思えないタイミングにも見える。

 

それが具体的にどのような結果を示すものか? 我々には想像の域を超えないが、人にとってより生きにくいものになりそうな予感がしてならない。

 

よりデジタル的発想が要求されるのではないか?

AIとの協業は最低限避けられず、仕事において大きな意味で人あまりが起こる。

 

一見、今更誰でも知っていることと一笑にふすようでは、この先ついていけなくなるほどの変革が今起こっているのであり、

 

結果が描く近未来像がより具体的イメージ出来る人は意外に少ないのではないか。

キチンとイメージ出来る人はより緊張感を持ちつつより前向きに行動するのだろう。

 

これは自分も含め例外ではない。

 

この大変革は、今のところ私達にはなんとなくと言った、ぼんやりしたイメージにしか捉えることはできないほど、虚ろな変化にしか表現できないが、遅くても数年後にそのアウトラインがはっきりして来る頃には、あまりのギャップ萌えに人生観を大きく変えざるを得ない人々がゾンビのごとく闊歩し、遅まきながらメディアによる「後から解釈」によって、さらに混乱をきたす人々が山積するほどの変化であるのは間違いなさそうだ。

 

この、現状ではとてもわかりにくい大きな変化を、特に国内では情報が得にくいがおい続けなければならないし、最低でも根本的に履き違えてはならない。

我々一般庶民に準備できることは限られているものの、感覚をよりニュートラルにし、神経を研ぎ澄まし、裏をかかれないよう細心の注意を怠ってはならない。

人それぞれで、出来ることには限りはあるだろうが、心の準備は万人に出来るのだから遅れは取りたくないものである。

 

これからの時期の年末年始は、我々庶民にはイベントや娯楽が目白押しの時期である一方で、より緊張感を維持しながら大きな変革のヒントを掴まねばならない、例年とはひと味もふた味も違った注目の時期になるだけに、その時代を後悔の無いように集中して過ごしたい。

ジムニーは、むしろ質実剛健で女性向きに思える話

ジムニーの売れ行きが止まらないようで、自動車男子にとどまらず、車の購入を考える人にとって気になる存在になっているようだ。

 

response.jp

【スズキ ジムニー 新型試乗】「自然児状態」が女ゴコロをくすぐる…岩貞るみこ | レスポンス(Response.jp)

 

硬派を決め込む男子ユーザーには申し訳ないが、クルマ好きのくろまはあえて言う、ジムニーは女子向けのクルマだと!

これは男の勝手な妄想だけど、ここまで硬派で潔い機能美の塊のようなクルマの、コスパの高さを賢い女子が見逃すはずがないとさえ思う。

同じ男子なので情けないと思いながらもあえて言えば、むしろ最近パットしないリアル男子より、男前でカッコイイ。

最近の女子はリアル男子にさじを投げるように、ペットやアイドル、様々なグッズに男らしさを求め、購入基準にさえする傾向を見るに、そんな女子には当にツボな名車と言える。

 

インパクトや個性と実用性をバランスよく持っている割に、軽ならではの税制面の優位性やコスパの高さを備え、今までありがちだった安かろう悪かろうな丸まっちい無難を絵に書いたクルマとは、明らかに流れを異にしながらも操作性は意外としやすい。

むしろ、軽のコンパクト性によって回しやすく、角張ったパッケージは見切りがしやすく、安全装備もほぼ標準である。

車高の高さは、女性には最初ハンディに感じるだろうが、慣れの問題で何より乗ったあとの見晴らしや見通しの良さは、変えがたい所有感を満足させる決めてになる。

 

今は売れすぎて納車が来年にずれ込むらしいが、生産体制を改善しているそうなので、解消も早いと期待できる。

また何より、この手の本格的なコンパクトオフローダーは、ジムニー以外どこも発売していないので、他社比較の煩わしさが無い。

ただ、独占なだけに値引き交渉は簡単ではないので、値切り好き女子は苦戦するかもしれないが、くろまがスズキのディーラーに行ってたいてい感じるのは、他メーカーのディーラーに比べて、スズキのそれは肩肘はらずフランクに交渉しやすく、変な裏読みの面倒くささが無い印象だった。

地方の販売代理店だと例外はあると聞くが、ちょっと足を伸ばしそこそこ販売量の多い店で交渉すると、あまり悪い印象は少ないだろうと個人的に思う。

 

かつてのくろまもそうだったが、相当遠出しないと買えない人も多いと思うので、自宅からの距離と利便性とのコスパは、ケースバイケースでバランスを取らなければならないが、言い値で買ってもそこは大型車ほど高額でないので、こうした機能性重視のクルマは価格相応の価値を理解しやすいし、買うときは高いと感じても機能に満足していれば割高感は残りにくい種類のクルマのひとつだと思う。

 

その点で、くるマニアが久しぶりにこんな軽自動車に、熱い眼差しを向ける稀有なクルマには購入候補に入れ、比較すべきクルマ。

別にスズキの回し者ではないが、自動車好きの一人としてぜひ、クルマ購入をされる方は候補リストに入れる事をおすすめする。

そのくらい久々に男も惚れ込む、所有欲をくすぐられるクルマだから。

何度か試乗をオススメするが、クルマで出かける楽しさが何か変わってくる体験ができるかもしれない。

イルカショー・クジラの文化で表面化する、根深い矛盾

先日国内でニュースになった、外国人にとってのイルカショーの印象にしても、クジラを食肉と見ないIWCの見解にしても、彼らにとって日本人の文化は「野蛮人」の所業にしか映らないんでしょうか。

 

彼ら(主に西洋人)の社会文化にも我々から見て同様な事例はあっても、スタンダードを自負する彼らには問答無用なので、結局受け入れる事になるのだろうか。

多様性ルールを打ち出す昨今の風潮の中で、彼らの文化に合わないものは多様性とみなさないかたくなさが、多様性の難しさをさらに複雑にしている。

 

多様性を受け入れるとは、宗教や性、文化や歴史の相違のズレから生まれるリスクを、平等に分かち合える概念だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

 

www.afpbb.com

IWC、商業捕鯨再開案を否決 日本は脱退示唆 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

 

クジラに関しては、捕鯨で乱獲したのは彼らで、とりっぱなしでクジラは激減した。一方、日本人は責任を持って減らない努力をして捕鯨するノウハウを持っている。

 

クジラ保護の気運には、映画「STAR TREK」のエピソードが大きかったように思う。

 

 

このエピソードで国内でも公開当時、保護派が激増した印象があった。

確かにクジラは私達ヒトと同じ哺乳類と言う、ダーウィン進化論で言う最も進化した生物と言う事になっているし、事実としてもイルカ同様賢い海の動物である。

 

それを保護したい人の欲求は否定できないが、同じ人間同士でさえ多様性を認められないのは、それ以前におそまつなのも事実で、多くの方がその矛盾に結論を出さないままで、この保護活動に加わっているのは、最と別の根深い人間の心理が関わっているような気がして、どうも素直に賛同しかねる今日この頃。

医療市場の諸事情と患者のニーズ

 久しぶりに、がっちりマンデーを見た。

高齢者・単身者の増加や、健康ブームも手伝って、医療はビジネスとしてジャンルを正当化できる時代なのだと感じる。

 

しかし未だに、過度な病院利用が常習化されるシーンが増えてるんだな、とも実感した。

 

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 少しビジネス話からそれる。

もう何年も前になるが、その片鱗を実際に見た経験を思い出した。

 

それは家族を救急搬送する経験することが何度かあったが、救急車に同乗して救急指定病院へ行ったときのことだ。

国立病院だったので、ER専門部署に搬送された後で、幾部屋かに別れたブース状の診察室で家族が診察を受ける間に、待合を指示され、結果待ちをしていた期間が結構小一時間あったが、座ったベンチの真向かいが救急搬入口になっていた。

その入り口は、頻繁に開け締めを繰り返すのを嫌というほど見ることになった。

 

大都市のERだし当然と言えば当然かもしれないが、問題は搬入された後の事でその搬入された患者候補の殆どが、結果論だが大した病気でもないのに”なんちゃって救急患者”とでも言いたくなるような人々が、とても多かったのには衝撃的だった。

 

最近救急搬送者の多さに、救急車の数が追いつかない現実をニュースなどで見聞きしていたので、日本の医療機関の能力不足に危機感を感じていた。

ところがこうした実態を見るに、自分の認識を恥じることになったわけだ。

 


家族が入院が決定し準備のために一時帰宅しながら、そのおぞましい現実に思わず閉口したと同時に、この先医療の進む課題が見えて、ゾッとした事を思い出した。

 

 

医療業が神聖化されるのは、本来の意味とはかけ離れた、業界が安定しつつ公務員と同様保証されるように画策したイメージに過ぎない。

これは、患者側にも課題になることで、メディア情報に振り回され、自己判断力を失い、自分の身体の調子さえ客観的に判断できず、医者や医薬業界に健康リスクを丸投げしている現実にあるのではないか。

 

家族の死を目の当たりにすれば話は別にしても、ちょっと太っただの、ストレスで調子悪いだの、ちょっとした切り傷や火傷にうろたえ、風邪の原因さえ自己判断するのを敬遠し、何をおいても119番コールする風潮。

言い過ぎを承知で言えばまるでタダなら利用しないのは損とばかりに、医療もコスパ偏重派が幅を利かしている現状は、きっと今でもERの現場で繰り返しているだろうと、容易に想像できるのだ。

 

人は確実に減る現実の中で、本当に正当な医療を必要とする人が居て、その立場なら深刻な状況を目の当たりにしている家族や当人には、この馬鹿げた主流派の横行は、当に洒落にならないのだ。

 

使うべき時に使う。

 

その要の自己判断力は、本来持っているもので、たとえ専門知識がなくとも、自分の身体の状態は、自分が最も知っている事のはずなのに。

 

それさえ自信を無くしたのか、自己にかかるリスクを第三者に転嫁しすぎて、自己判断しない者が増えたがために、この当たり前の判断ができていない。

この点で当たり前の判断力が低下しているのは、

 

本来日本人の誇るべき「潔さ」が失われているのかもしれない。

 

公共サービスが無料だからと言え、とりあえず呼んどけという安易な現実回避策を選ぶ前に、危機意識に苛まれる中でも、一度自分の耐性に向かい合って、許容できるリスクが本当に無いか、それでも医者にリスク転嫁すべきかを考える時間は十分にあるだろうと思う。

 

それは邪推だ!

 

と思われる方も居るかもしれないが、少なくともこの可能性は無いだろうか?

 

 「命に関わる医療は何を差し置いても、判断の正確さより緊急性が優先されるべき」

 

と、

確かにそうだ、誤ってはいないし、その結論は患者がするものでなく医者が下すべきというロジックを否定していない。

ただ、医療待機者が増える傾向がある今、この優位性を暗黙に過信したり自己都合で利用していてないかと心配になる。

 

本来の患者の立場に立たされたとき、そのしわ寄せを受けている現実を目の当たりにするのだ。

その時思うかも知れない、

 

「お客様(患者)は神様というロジックは乱暴で、自分の首を締めかねない」

 

自分で判断できればそれに越したことは無いのに、私達は上の暗黙の保証があるがゆえ、もしくは思考停止したまま、専門家神話に甘んじ過ぎていないだろうか? 

それだけは理解していただければ幸いだ。

 

 

さて、ビジネスの話に戻る。

救急車不足を生んだ原因が、医療機関ではなく、私達患者側が生み出したという事実を見た。

 

がっちりマンデーで紹介された夜間診療病院ビジネスは、こうした救急医療の実態を知り尽くす者にとっては、ブルーオーシャン市場という点で理に叶う。

しかも、やってくる患者は軽微な病気が多く、しかも救急搬入される患者も予め致命度の低い者だけという、低リスク。

 

言っちゃあなんだが、医療をビジネスに変えるなら、命の保証は可能な限り避けるのは鉄則中の鉄則。

夜間というナマケモノ医者としては避けたいこの選択をして、患者からは感謝されるのだから、人と違う時間帯に抵抗がなければ当にチャンス。

 

火中の栗を拾いたがらないなまくら医者のスキをついた、救急医療事情を知り尽くした医者ならではの独占場だけに、苦労してきたER経験者には朗報だろう。

患者側も、救急現場という修羅場をくぐった猛者が、しかも夜間に診察してくれるのだから、これ以上の安心は無い。

 

医療を儲け話にするのは、倫理的・心情的にバッシングを受けやすいが、業界と患者双方から喜ばれるビジネスだ。

医者は頭のいい人が就いていると思っていたが、弁護士や会計士、企業診断系の業界が飽和状態だけに、安定しきった業界に浸りきったり、保身に走りすぎれば、その結末は悲惨だ。

 

 

最後に、医療ビジネスでは夜間診療はまだ隙間産業だけに、これからの医者を目指す若者も、ERで武者修行して究極の医療現場を経験しても、十分に後で元が取れそうに受け取った。

 

クルマの時代に、大きな変化が来たとしても。

自動車のカリスマは、本当に一番良い時代を生きたのだな、と思う。

 

headlines.yahoo.co.jp

ホンダ創業者 本田宗一郎氏の「ものづくり魂」、伝説の経営者が生きた84年間(ビジネス+IT) - Yahoo!ニュース

 

今までのモータリゼーションを俯瞰してみると、逆に本田宗一郎氏のようなカリスマがこの時代を作り上げてきたということなんだろうな。

かく言う自分も、こうした良きクルマの時代を作るー構成員なのだと思うことが多々あるし、同じ思いの人は多いと思うに、これからの時代は大きな変化が起きようとしているのか、単純に自分の世代に合わせて見ているからなのか。

 

ただ、これからのクルマは「自動車」というカテゴリー単独で大きなブームを引き起こすことは無いだろうと思ってます。(それを確かめられるまで生きてはいないでしょうが)

明らかにクルマは、ITやECOの中での手段の一つになっていくのが見えているので、生活や人生の価値観や目的にはなり得なくなるから、というのが理由。

 

故に王道の時代を生きてきたくろまは、その世界を可能な限り楽しんでいきたいと思うし、それができるのが自分の世代だと開き直るつもり。

 

イイねぇ、これだけメジャーで歴史に残るモノに、こだわれるというのは。

すっごい特権だと思うよ。