「良いではないか〜」気質から抜けられない男の悲劇サポート
セクハラ問題を考えるのに、日本では主に女性が被害者になりやすい事実を、改善できていない原因を特定、法整備化しきれないのはなぜか?
アメリカでは、ウーマンリブの運動によって女性人権を勝ち取ってきたが、日本で起こったそれは、一時のお祭りでしか無かったし、それは男性社会の自己満足でしか無かったし、むしろその後は何でもありな風潮を助長させた。
そう、うそぶくような言い訳が聞こえてきそうな日本の風潮には、今じゃウケもしない勧善懲悪時代劇の定番シーンに見える悪しき伝統は、今でも根強く残っているのだろう。
自分も日本人だから、国の恥部を責めたくないし、良いところの方が多いとさえ思うが、日本人の精神文化で致命的な点が「セクハラ」にでていて、特に男性は良く言えばロマンチスト、悪く言えば妄想癖が強い人は、現実を飛ばして思い込みで行動した結果が最悪性犯罪につながっている事実と、女性は男性が思っているよりハッキリした言動を要求していて、男性の方がハッキリした言動をぼかし身勝手な行動をとる風潮が無くならない事実。
その事実を未だ一部の男性は、飲み込めていないと認めざるを得ない。
そこで敢えてエラそうに、彼らにもわかり易く「なぜセクハラと訴えられるのか」をレクチャーする。
女性はより現実を重視し、単に露骨に行動すると「角がたつ」ので控えるのを、認知できない男性が「奥ゆかしい」など勝手に美化、自分に都合よく置き換えてしまう。
この悲劇は、日本人に限ったことではないが、我々は加えて「ホンネを隠す」を美徳としていて、その解釈が男女で違いがあるということ。
本能的には、男から見る女は性欲・従属の対象、女から男を見れば共感・保護の対象と見れば、それぞれのスキンシップの目的や意味が全く違うとわかる。
セクハラを両成敗するなら、男性は現実を歪曲した行動をし、女性はホンネでハッキリ拒否しないのが悲劇の元と言う事になる。
セクハラは男女どちらも起こすが、日本では圧倒的に女性が被害者のケースが多いので同情を隠せないが、多くは男性の現実逃避と妄想癖が原因で、セクハラが多く起きている現実から、特に男性は逃げてはいけない。
日本は男性一系の天皇制の国で、それ自体誇るべきではあっても、それを国民特に男性は極解釈したのではないか、武士の文化にもあるかもしれないが、男がエライ→エライなら何やっても赦される、と勘違いしたかもしれない、それが日本の男性社会の根っこにある。
男性がキモに銘じておくべきは、女性に優位性を持ちたいのなら、リーダシップ精神と同様で、実行責任も付いてくると言う自覚。
また「女性に負けを認めたくない」と思いがちな男性は、負けたときに一旦事実を認めてから、負けない方法を考えよう。
認めないまま突っ走ると、それがストレスとして残り、客観性が見えにくくなる元になるから。
加えて男性は「比較対象」「敵」を立てて、相手より優位性を誇示する本能的なクセがあって、女性はそれを本能的に受け入れ共感しようとしてしまうようだが、それを都合よく「征服した」と思い上がる時点で、思い上がりと心得よ。
女性は現実的な生き物、と男性の間で言われる。
現実的なとは、約束事や保証が大事であって理想や夢はそれに比べれば二の次にしてコミュニケーションをとる一方で、男性はその逆の傾向が強いので、縛られない自由なコミュニケーションを好む。
このギャップが大きくなりすぎると、事件は起こる。
女性が受けれようと努力をするのは、必ずしも男性の要求を丸呑みしているのでなく、認めた分の見返りは欲しいのだから、男性は見返りを無視すれば「契約不成立」であり、問題化するのは当たり前。
セクハラは、女性が欲する真意を正確に読み取れないまま、男性側の見返りだけを強要した「契約違反」の結果起こる悲劇で、起点はもしかしたらお互い良かれと思った合意が、結果契約違反ともなりかねない。
加えて、常にうつろう女性の真意に、柔軟に対応できない男性が、ワンパターン攻撃が通ると勘違いした場合も問題化するので、男性各々方油断召されず、常に精進あるのみ、である。
最後に、同じ男性として「コミュニケーションに不器用」な男性諸氏にエールとして送りたい。
満員電車で、手を上げ自己防衛しなければならない男性に同情はするが、女性に対して過度な反応はやめて、普段から自然に相手を慮って行動できれば、それも無駄なことと思えるときがくる。
女性とて、むげに男性を故意に犯罪者にしたいわけじゃないからだ。
男性の在るべき姿は、悪魔でもケダモノでも無いはずだ、
誠意ある紳士であれ、誇り高き戦士であれ。
それを誇れるのが、男子の本懐ではないのか?
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