くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

科学では見い出せない知恵と人の感性

下の文章は筆者の創作小説中で、ネイティブアメリカンの教えとして書いた一節だが、この教えはどの地域の真理にも共通のものであり、人が知恵を有して以来持った、自然から闇の恐怖を学ぶ知恵の比喩でもある。

 

 闇に紛れれば、人は僅かでも光を利用できる。
 神がなまじ光を与えたがために、人は闇を恐れなくてはならなくなった。
 闇と素直にすりよれば、人は強くなれるのに。

 光は闇を生む、光が強ければなお、闇も強くなるのだ。
 人よ! 恐れず余計な光を求めず、闇に慣れ一体となれ。
 自ずと闇は恐れるに足らず、心安らぐ支えとなろう。

「我々の大地の神は、正しい闇の力を教えてくれるのだ」

 

ネイティブアメリカンは、自然から八百万の神を見出した日本人と同様の感性で、壮大な大地に現れる訪れる夜の闇から、自然を畏れ敬い、共存する知恵を学んだと言って良いだろう。

 

日本人は、自然に超人的な世界観を見出す事で、人が知恵におごる愚かさを抑えようとしたが、その表現方法に相違はあれど、彼らと根本の解釈が共通している学びは、全く歴史が異なる地域でも奇妙な共通点を持っていて、それが真理であり社会ルールとして活きていた。

 

このように、人が欲する真理は本来何も無いはずのところから、意味を導き出す人の知恵の発動であるが、我々日本人も例外なくこの知恵を自然と共存することで、たくさんの知恵を学び、真理へ導いていった人々だ。

 

これを表現するために、日本人は今までにカタカナ、ひらがな、そして古代中国から漢字を取り入れ、それらを時には使い分け、時には上手に混ぜていくことで、豊かでより詳細な知恵を我々子孫に残してくれている。

 

ただ、最近の我々の境遇は、他国の様々な思惑に沿って、その知恵を引き継ぐことから遠ざけられ、近い将来には無意味な知識でしか残され無いようにされているのは、とても残念なことだ。

 

近年の日本人にとって、少しでも多くの資産を得るのに意識や時間を費やすことが増えた、これ自体に何の罪も無いし、むしろ大いに勤しむべきことだが、それに目を奪われた事でそれ以上に大切な、継承すべき日本人の資産である知恵を知ったり体験する機会を奪われているのは、余りに虚しい話だ。

 

それでも不思議と無意識に、親から子へと教えが継承されているのは、素晴らしいことだが、少子化でその美しい姿を見る機会も減っているのは、もう親子関係を超えて日本人の持つべき共通意識にしていくしか無いかもしれない。

 

その継承は、強制であってはならず、自然から学んだ以上自然にされるもので、普段の行動から学び取るものだっただけに、それが最近の受難の中で誤解されているのは残念で惜しい話である。

 

多くの不安や恐怖から、どうしても繊細な日本人は、自然にできるはずの行動を、行動そのものに意識を入れすぎて意識より行動に意味を求めすぎる傾向が強い傾向が出ている。

 

こうすべきだ!、〜でなければならない!、日本人なら〜、自分がそう思い込むと日本人なら当然同じ行動をすべきだと言わんばかりの暴挙にでてしまう、これほど悲しい事はない。

 

そこまで思い詰めるのも、日本人の繊細故の結果なのかもしれないが、そんな時にこそ上に残した闇について思い巡らせて欲しいのだ。

 

人は賢い、しかしそれを過信するがゆえに、本末転倒な行動にでてしまうことがあるが、その本意はとても純粋な性善説に由来しているなら、想いは正しい。

 

これは、闇との付き合い方と同じで、何度も向き合って慣れていくしか無いのだ、それを身の回りに起きる多種多様な体験を闇と置き換えれば、すべき事は全く同じで難しく考えなくてもいいこと。

 

日本人は、本当に素晴らしい才能を持っていると感心することが多い、日本人に生まれ日本と言う国に生を立てられたのは、本当に幸運であると心から思える。

 

その根拠は、1000年以上も続いた天皇以外全て平らかな社会の中で、豊かな四季と自然に恵まれた環境から多く残の知恵悟りを自由に好きな時に学べる環境に、偶然生まれて来られたからだ。

 

よく観察して欲しい、これだけの好条件や奇跡によって続く日本の様な国が、世界中何処に在るだろうかということだ。

 

それに気づいた時に、世の中には偶然だけでは理解し難い、何かを見ることだろう。

 

人の感性は、自然を畏れ敬い共存しようとする者と、恐れる余りに自然を破壊征服しようとする者に二分されてしまったが、世界は思ったより狭いと知ってしまうと後者が増えてしまった。

 

ただ、残念ながら未だ科学が自然の知恵を超えられ無い現実は無視できず、人は非科学な事実を認めざるを得ないし、むしろ自然から摂理や法則を見いだせる人の感性を、無能にする科学は無意味でさえある。

 

人は、そもそも自然の一部でしか無く、超自然とは何かを知る意味は無いし、深めるならば今現存する多くの奇跡の中に居ると言う実感や、自分の立ち位置の在り方を模索することが、科学であり自然と共存する知恵こそ万能であり、人が求める神ではないだろうか。