くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

次期ハイエースの噂とトヨタの次期デザイントレンド

国内で人気トヨタハイエースは、昨年あたりから規制対応によるFMCの噂を耳にしていたが、今年になって画像が出回っていると初めて知った。

 

motor-fan.jp

これは新型ハイエース 300系か!? SNSにトヨタ新型ハイエース 300系とみられる画像が多数アップされている|MotorFan[モーターファン]

 

 

その後の最新ニュースでは、どうやらスクープ画像の多くは海外向けモデルのネタだったらしいね。

car.watch.impress.co.jp

トヨタ、海外向け新型「ハイエース」をフィリピンで世界初披露。日本市場は従来モデルを継続 - Car Watch

 

 さて、この新型はグローバル専用で日本仕様は従来型を継続し、新型投入しないとわかって少し肩透かしだったけど、トヨタ車における次世代のデザイントレンドのヒントにできるかな?この点は極めて可能性低いと思うけど、他車へのデザイントレンド統一展開して行く際に、大きく影響を受けるところだから、判断材料としては乏しいね。

欧州市場向けの印象が強かったので違和感があったけど、やっぱりって感じ。そんな頻繁にMCする車種ではないから、今後はグローバルブランド化・統合もあるだろうに、今後も国内専用はFMCしないのだろうか。

 

ハイエースは法規制ギリギリのレイアウトで室内空間最強を誇っていたが、ついにボンネット追加によって、室内スペースが削られるという憂き目にあうとのことで、荷室サイズ長が短くなることがわかっていたので、FMC前倒し書き込み受注も噂されたことで、印象に残っていた。

 

結局は現状版の続投が決まったわけだけど、バンが法規制で全面衝突対策で、ボンネット付きレイアウトに変わる様は、軽自動車に始まり小型車でもいつやってくるか気になっていた変更案件なのに、トヨタは変えない選択をしたことは、今後時代の流れには逆らうことになる。 

 

このクラスでは、ライバル車の日産バネットが先行MCして久しかったし、欧州向けとかOEMで実験的にボンバンレイアウト車を販売したりとか、やっぱり「商用」ベース車はスペース効率への要求シビアなので、市場ニーズの反応とか色々神経使tたんだろうけど、近いうちにトヨタの回答(FMC)を出さなければならない。

国内商用車市場じゃ「ハイエース」のブランドは異常なほどの信頼性を誇っているだけに、荷室長短縮の話題には相当ナーバスにならざるを得なかったみたいで、まあ、なるべくして「最終兵器」的なデビューを期待したい。

 

で、流れている画像の分析したいんだけど、すでに何種類か出回ってるようですね、気になったはトレーラーに積載されている画像で、公道で写されて実際に積まれていて生産車だからちょっと期待したけどね。

 

海外仕様だけど書くことなくなったので、今後のFMCに向けて分析すると、各サイズ比率(特に背面画像の縦横比は日本車っぽくない)は日本車にないもの、このまま日本仕様化するには厳しそう、保守的ニーズの高いハイエースなので日本仕様は全く別物になるんだろうな。

 

ただ、FFエンジンレイアウト→低床化・低車高化→車幅現状維持、ならば当然横長になるが、機能面で考えればいいことづくめで合理的で、これは進化していると言えるけど、もし現行車よりも座席位置が低くなるのはマイナスセールスポイント。

あと気になったのはフロントのデザイントレンドで、最近のトヨタデザイン(特に国内向)のトレンドからして、直線感が強い印象で最近の複雑な3D曲線を織り交ぜたラインセンスが見られなくて、どっちかというと合理的でライバル会社のVWライクなので、言うまでもなく確実に変えてくるだろうな。

 

最後に、トヨタ車における次世代のデザイントレンドはこうなるんだろうか? というヒントにもなるかもね、この点は可能性低いと思うけど。

そもそもくろまじゃなくても「プリウス」でコケるようなイジり過ぎなデザインは不評だったから、他車展開して行く際に大きく影響を受けるところだから、これだけでは判断は難しいけど、レクサスっぽいトレンドも合わないしね。FMCの期待も込めて楽しみだ。


「ワンフェス」作家保護と拡販の間で

今冬の「ワンダーフェスティバル(Wonder Festival)」は、昨年以上に盛大であると同時に、著作物の版権保護によって足かせとなっていた拡販への、新しい試みがされたようですね。 

 「1日限定の版権販売」

gigazine.net

ワンフェス2019[冬]一般ディーラー要注目作品まとめ - GIGAZINE

 

電子書籍著作権保護でも、古書販売文化のあるこの国では、その性質上の矛盾がネックになっていて、明確な電子データの所有者証明と、正規であっても拡販上の限界があって、イマイチ普及を阻んでいます。

フィギュアは、日本の緻密な技術力とジャパンアニメ文化の認知によって、世界的に広がる日本文化の優位性の一つですが、中国などの「度を超えた模倣文化」の警戒感もあって、著作物の保護を担保しながらの拡販の難しさを孕んでいますが、その課題に一石を投じたとてもポジティブな試みですね。

 

純粋に、アーティスト・職人の創造と表現力を認めて欲しい、と綺麗事を言っても売れなければ意味がないわけで、アートのジャンルに括られながらも、特にアニメ自体が商的要素をベースにしている以上、そこからの派生アートは「売れてこそ本懐」。

意外と日本人的には芸術と商売を分けてしまいがちですが、海外の人々にとっては全くのシームレスな現実で、もちろん「売れるだけの魅力・実力」の評価があってこそですが、販売を伸ばす方法も積極的に研究され、実戦投入されるべきものでしょう。

 

海外からは独特に見られる、「並ぶ文化」「集う習慣」を楽しめる日本気質によって、今までマイノリティだったマンガ・アニメが市民権を得て、模倣さえされるようになったアニメ・フィギュア・コスプレを「祭り」として楽しむ文化は、日本人には珍しいオリジナルであり発明として、誇りに思います。

だからこそ、性別はもちろん年齢や趣味の違いに関係なく、もっと正しく認知され空気のような広がりを見せて欲しいですね。

 

ツンデレ行動する異種と、異物扱いされてしまう珍種

理解しにくいテーマだが、極論すれば差別と区別の話。

 

仲良くしようと再三骨をおる隣国には、ツンデレと言えばカワイイが、

良いようにパシリ扱いされ、決別しない国

 

下の記事の絶滅危惧種が、カワイ(キモカワ含む)ければ情もわくが、

一旦「キモい」と思った瞬間から、

異物感をあらわにし、敵対し拒否に態度を翻す。

web.smartnews.com迷信のせいで絶滅寸前⁉「歩くマツボックリ」と呼ばれるふしぎな動物 (Catari(カタリ))

 

誰にでも当てはまる話に聞こえるが、この場では日本の話。

 

日本人が日本人を、ここまで蔑むのもどうかと思うが、日本に良かれと思うがゆえに最大のジレンマに触れてみた。

 

なぜこんな矛盾する行動をするのか? 考えた。

 

イイトコ取りかも知れないし、自分が一番優れていると、信じて疑わないのかも知れない。

人でも国家でも、反省の節目を持つ。

 

筆者も日本も、その節目を何度か潜ってきた。

 

それでも、幸福も不幸も関係なく止むことは無い。

その節目を「自分だけが」と思えば、

その分周りに転嫁したくなるのが人情。

 

生活環境や文化によって、転嫁する相手の見方は人様々。

 

その見えない感情を、異物に投影して凌ぐ処世術を私たちは編み出した。

それ故、その分余計な問題も増やしている事実。

 

これにどう向かうかは、残念ながら人によって違っている。

 

では、私は?

 

器用に付き合って、前向きに転嫁できている?

 

見失って振り回されて、それさえ気づけなくなっている?

 

そのジャッジがどうした? と言われれば、私は「別に」と応える。

しかしホンネは、

「それで良いのか?」と、

問い返したいのだ、その問い返しを自分に課すために。

 

節目を経ることで、

 

ツンデレで済まされない憤りから目を背けず、

異物を受け入れる準備と意思を持つ。

 

多様性に、正面から立ち向かう姿勢が、

ようやく育ち、身になっていくと感じられる。

 

日本人が日本人を叩くことに?

国際資本メディアということもあるのかもしれないが、記者は日本人のようで、こうした過ちを「日本人の病」と言う表現をして日本人記者が日本人を問題視する。

書いてある事実経緯は、そのとおりでバイアスがかかっているとも思えないので、基本的に肯定できるものの、一方で日本人としてそのスタンスに疑問符も感じる。

 

web.smartnews.com

大坂選手の「肌の色」や「発言」を悪意なく変えてしまう日本人の病理 (ダイヤモンド・オンライン)

 

経緯をざっくり言えば、

まず、誤解を招く広告をだしたスポンサー企業に視聴者や、大坂選手の管理組織から物言いが入って、問題化した。

 (CMの視聴者からの「違和感」の書き込みはあった。)

 

更に、前者側の認識と後者の主張の騒ぎが、大坂選手を板挟みする結果になった上で、更に朝日などのメディアが誤訳して、ややこしくした。

(誤ったニュースとの認識がこの時点であったか、証明はない)

 

その結果、記事の著者いわく、日本人ファンなどが「完全日本人化版」大坂なおみ選手を作り上げてしまったという指摘。

(フィーバーするファンと、問題視するファンの分別が不確か)

 

※()内は、ファンのその時点の認識を推測したもの。

 

こういう問題は、立場によって視点はガラリと変わるもの。

ちなみに、くろまは日本人で基本的に日本が好き。

一時期流行りで左翼傾倒した時期もあったが、今はどちらも組みせず独自のスタンスをとって、合理的に判断する立場。

その視点で読んで、記者の記事は問題をついていると理解しても、寄り添うことは出来ないと感じる。

 

大きく問題が逸れるといけないので、国内の多くのファンの認識は「大阪選手個人の問題」だと大方が割り切った上で、大坂なおみフィーバーに参加しているというスタンスだとくろまは見ていて、本人もそのファンの認識に配慮した上で、スポンサーへのやんわりとした指摘をしているだけで、それを即座にスポンサーも撤回しているという結果。

その経過で発生した「間違い」に、本質的な問題があるとする記事の根拠は、グローバル視点でみた日本の欠点のように受け取るスタンスの現れということか?

 

日本ファンのありがちな「フィーバー」ぶりに警鐘を鳴らす意図があるとは思うが、たしかに日本人のお祭り騒ぎの時に、トラブルは報道される姿を往々にしてみる。

ただ、本当にそんな単純な問題か?とも思うし、そもそもデモやお祭り騒ぎの際のトラブルはどの国でも必ず起きていて、日本特有とは言い難い。

 

日本人は「日本気質」に傾倒し「お祭り好き」は日本の気質で、ちゃんと盛り上がるべきは盛り上るものの、一歩引くときは冷静に問題を見つける慎重さも持っていて、そのどちらも日本のお家芸なのだから、片方だけ問題化する前に反論の対処も考慮すべきだろうと思う。

 

その上で、当ブログの結論は、

「致命的な問題化」を避けられた以上深追いは無用、各個人で課題を残せばそれぞれで自己完結すればいい話、それを混ぜ返すように大騒ぎする方が何か意図を感じる。

 

 基本お祭り騒ぎでいいと持っていて、お祭りのどさくさで問題は何がしか起こっても、粛々と解決する。

 

それができていれば問題なし、

なのでは?

ただでさえ問題は山積しているし、当事例のように結論できている案件を、必要以上に引っ張るのは、それこそ話がややこしくならないだろうか?

 

物流の進化がもたらす人減らしの社会

Amazonにかぎらず物流センターや、トラックの配送の仕組みは、国内でも最先端の設備投資として関心があり、その仕組みを元々持たない企業に勤めるひとは実感んが薄いかもしれないが、物流専門業者のサービスによって関連し、物流企業による先行投資後の結果配送コストは激的に下げられていく。

 

このこと自体はどの企業にとってもWinWinであり一見問題ないが、このコストカットの大半は人件費削減によるもので、その結果雇用機会が激減するのは間違いないわけで、今サラリーマンなどのホワイトカラー職にある人々にとって、一見他人事で済ますことはできるかもしれないが、企業のコストカットはブルーカラーと同時に、可能な限りホワイトカラーにも及ぶことは、すでに避けられないのだろう。

一部の高管理職を除く雇用者の継続は、企業単位の裁量で調整され、今後の労組の仕組みの改変などで、保証が目減りするのは避けられない。

 

wired.jp

アマゾンが試験導入した配達ロボットから、見えてきた「宅配の近未来」(動画あり)|WIRED.jp

 

これからの仕事は、日本が中国に巻きちられることがなければ、自営であっても雇用であっても、各個人単位のリスク管理が一般的になり、安定収入の確保は他人任せにはできない時代になると考えている。

 

Amazonが国内物流の要を握ることは、今すぐには直接私たちに関わらないかもしれないものの、進行状況によっては数年内に激変する可能性があると見ているので、生きるのに精一杯のひとは基より、今安定した生活を営むひとであっても、他人事ではなく正社員のありがたみやメリットは目減りするんだろうな、と感じる。

 

 

 

 

「わが城を持つ」ささやかな夢のその傾向と対策

家持ちの人と借家暮らしの人では、その価値観のギャップは大きく絶対的結論のでない永遠の夢、それについて書く前に、あらかじめテーマに対する立場を明らかにしておく。

筆者は昔から家持ちは「リスク」にしかならないと考える派だったし、今もそれは変わらないが、その立場から再度「一国一城の主人」となる日本人の夢について、考えてみたい。

 

まず、一度でも長期的な住居に関するコスト計算をした人なら一目瞭然で、結果は管理コストや手間の不透明さを考慮すると、トントンどころかリスクの方が大きいと誰もがたどり着くはず。(そう結論しなかった人はこれ以上読むと不快かもしれない)

その上であくまで家持ち派は、それでも一城一国の主人としての夢を実現したい人で在あり、借家暮らし派はその結果に従い浮いたコストを他に分配しているだけだと解釈している。

 

さて、そのどちら派が「勝ち組」なのかは、筆者は未だ結論に至れないでいるし、これからも出ないだろうと諦めている。

そもそも勝ち組にこだわらなくてもそれが人として「当たり前」と考える人は、これからの話はわかりにくいかもしれないが、筆者は当たり前という無難な着地点に落ち着くつもりはなく、下のような「策略的・意図的」な広告があとを立たないのが気に入らないので、それでも書き進む。

 

president.jp

家を売るなら“2022年がリミット”な理由 | プレジデントオンライン

 

筆者も「家=資産」と考えるのは同じで、正の資産として価値を認められれば家持派にいつでも寝返るだろうが、そう思えない節があまりに多いと感じているし、そうするには不利な点も多いと解釈している。

家持派のコスト管理のキモは、今までならまだ資産として転売によるメリットが高いと見ていると思うが、筆者は前からそのメリット自体仮想的であり、実態のなかったもので「そう信じて違わない」人が一定数存在し続けられた時代があったから、そうなっただけではないのか。

 

この仮想的なメリットは、今更言うまでもなく有力投資家の資産計画によって、良いように操作され利幅を肥やす手段にされてきた事実を、負け組の筆者は無視できなかいと考えた。 

 負け組が勝ち組になってから家持ちになるのは構わないが、殆どの人が負け組を自覚しない(対策を十分に取れない)まま持ち家を持つことが、有力投資家にとってその人々が鴨ネギの「カモ」になっている姿を無視できなかった。

 

日本では特に「一国一城の主人」になることが、勝ち組の象徴のように思われてきた経緯を見ると、上に言う真の勝ち組の犠牲者が多いのは仕方がないのかもしれないし、そもそもその状況や立場を「犠牲者」だと思わないだけなのかもしれない。

そう言われれば身も蓋もなく「見解の相違」なのだろう。

 

そう言う方々にはこれ以上申し上げることはないが、筆者のようにそのロジックに何らかの不条理を感じるならば、それも在りと言う事ではないだろうか。

 

負け組を自覚し、それをバネに勝てないまでも負けない姿勢を崩さない。

 

このスタンスに至って、今の自分が在る。

遅すぎと言うことはない、だからこそ行動で示さなければならない。

 

そう思える人が増えることを願わずにはいられない。

 

影響力工作(1980年代)なる心理工作が実在した時代背景

太平洋戦争終結後に陰謀論者にとどまらず公文書にも名を連ねる「MK・ウルトラ」や「スターゲイト」に見られる、心理・洗脳工作、超能力を含む人間能力研究が、アメリカでどこまで実社会に投入されているかはわからない。

ただ、この背景にはアメリカが敵視し続ける、共産主義コミンテルン思想に対する拒否反応が背景にあったためで、アメリカは事あるごとに国民に対し「赤狩り」フラグを根拠に、国家予算をその対策として使っていたとの疑惑が、都市伝説化したものなのだろうか。

事実、当時想像を絶する莫大な予算が発生していたのは、ご存知の人も多いと思う。

それらが何に使われたか、少なくとも今のアメリカは、その割には元気がないのだ。

 

 

「DUPES(Writer:Paul Kengor)」という日本語未訳のベストセラー書があるらしく、ある意味マッカーシイズムの犠牲者として、当時のソ連の対米工作の中で、共産主義者とされ利用された有名人たちの本だという。

実際はソ連には、コミンテルンと呼ばれる思想に基づき行動する者がおり、アメリカでは内情が不足していた結果、コミンテルン共産主義者を分けず赤狩りとして凶弾した背景を暴露しているらしい。

無実で操り人形を演じさせられた有名人が居たことが明るみになっったことで、日本でも共産主義者は当然としても、国そのものがアメリカ・ソ連の大根役者を買った可能性も思い浮かべられる。

ironna.jp

吉永小百合まで「広告塔」に担ぎ出す共産主義の影響力工作

 

くろまを含め実際に係った人でなければ、真実はわからないのだろうが、この活動はどうやら1980年代に、コミンテルン一派によって確立された「影響力工作」なる理論と計画を基に実施された経緯があって、一般に言われた、

共産主義コミンテルン=赤

と認識していた自分からすれば、驚き。

 

かつてアメリカで極秘扱いされた国家の機密文書が公開され出し、一般シンクタンクで分析され出したことで、当時のリアルな事情がやっと明るみになりつつあるが、近代史マニアにとっては、その一環として興味深い。

 

「MK・ウルトラ」や「スターゲイト」が陰謀論者の言う陰謀かはわからないが、1950年代から90年代頃までに、当時の国をまたぎ大学や研究機関の間で、まじめにシビリアンコントロールのテクニックが、話し合われ、社会の流れに大きな影響を与えてきたのは、間違いないとは考えている。

 

これを事実かどうか、証明できるわけでないので、都市伝説なのだが。