くろまのパーソナル・ワークショップ

生活・仕事への分析力向上を目指し、あえて辛辣に物言います。

征くも地獄、戻るも地獄

ビジネス手法で、不安を拡散しておいて客を惹きつけ落とす手順があるが、これはマスメディアが大衆の意識を統制する際、古くから使われた方法だが、今更googleが禁止するこれの意味する事は?

 

  7月17日、米アルファベット傘下のグーグルは新型コロナウイルス陰謀論を唱える広告を禁止すると発表した。写真は4月12日撮影(2020年 ロイター/Dado Ruvic)

具体的には、1)新型コロナが生物兵器として中国の研究施設で開発された、2)マイクロソフト<MSFT.O>共同創業者のビル・ゲイツ氏が新型コロナを製造した、3)新型コロナは作り話──といった類いの広告が禁止される。

 

 

諸氏は日々無料情報の広告で、この手の煽りに気分を害したことも少なからずあるだろうが、googleが禁止したコロナウイルスにまつわる広告が、様々な目的で行われているだろうことは、うすうすお気づきだろう。

 

酷いのになると、発信元と禁止元が同一という自作自演もあったり、何を疑うって良いかもわからないままで、振り回されるのは大衆側である。

 

つまり、どっちに転ぼうが騙されるまで終わることはない。

物事の勝負は、勝ちたい側が相手が根負けするまで続ければ、勝つのである。

 

 厄介なのは、勝ち負けの線引きが人の価値基準によって千差万別だと言う現実で、「勝つと思うな、思えば負けよ」と歌った日本の柔の精神は、いつになっても世界に理解されないかもしれないと絶望感さえ湧いてくる。

 

 

 それはさておき、利権や人権が侵害される以上、いかなる疑惑があろうと、事実証明無しに個人団体を貶める行為は禁止されるし、それなりの徒労によって証明しなければならない。

 

そのルールを、破ればその先は中国共産党が自国主権を縦に、自治権を主張する地域を縛る行為を認めることにさえならないだけに、最後には相応の手間と金を準備できる者が保障される社会では、これ以上これ以下も無い。

 

我々が認めた社会は、金と時間を自由にできる者の意見が優先される仕組みになっているが、それに逆らえばそれを実践する唯一の勢力の参加しか選択肢は無い。

 

どちらを選んでも、それなりの覚悟と行動は必要で、その行動の結果生まれる恩恵と損失も自分で追うのだとすれば、あなたはその行動で博打の行動をするか、覚悟の行動をするか、それを常に自分に問わなければならない。

 

 

つい先日、未来を期待された若き俳優が自らの命を断った。

古い話なら「涅槃で待つ」と言い残して去った俳優も居た。

 

何かを言い残して命を断つ事に、どれ程の意味があるかは筆者には解らないが、この世に残って何かを残そうとする者にとって、彼らの残した言葉以上にその行動は、辛すぎる現実である。

 

日本人は、世が大きく動く中にあってこんな些細なことにさえ、考えてしまうのである。

 

考え過ぎなのか、思い過ごしなのか、それでも考える意味は何があるのか、兎も角

 

冥福をお祈りする。

マネタイズ・ダイエットの行方に注視

消費者のマネーは何処に向かうのか?

 

 

 

物価上昇維持を目指しGDP比2%を政策に掲げていたものの、コロナウイルスのダメージでそれどころで無い状態。

 

中央銀行長期金利マイナス政策が続くも、これを有効活用できない企業が少ない事で、一部の安定企業だけがより有利になっており、自由競争原理は働くも、均等に働かないのが現実だ。

 

今後より仮想現実社会化への貢献が有利になり、それ以外の産業は淘汰される傾向は、特に米中欧で加速すると考えられ、株価でもナスダック株が圧倒的に有利な点からも証明される。

 

投資家にとって、よりマネーが集中する市場に投資熱が向いており、この点からもよりIT・医療関連が成長し、改善なき運輸旅行が淘汰される傾向は止まらない。

 

これは両極端な説明だが、今年の1年間で産業のIT化はイッキに方向付けされ、より人が動かなくても機能する社会の仕組みは、本格的に加速することになる。

 

この流れを考えると、今後仮想現実化される社会への同調の動きで、雇用は整理され働く意味が大きく変わる。

 

仮想現実の中の客となれれば生き残れるが、なれないものは淘汰され人として扱われなくなるが、その時点で多くの対象者は反抗の意志まで削がれて、自殺者が増える。

 

生き残れた者も、結局仮想現実以外では奴隷と同じで、資金が途切れた時点で価値を失うだろう。

 

これが最悪のシナリオ。

 

そうならないために、

 

高度な手段、中国共産党いう必要悪として活かす選択を採るか、個人責任で マネーに頼らずとも生き抜けるスキル(様々な援助や保障を最大活用、コミュニケーションスキル)を作っていくか。

 

前者を選択するなら今すぐデモを起こすなり革命を起こすべきであり、後者なら今からマネーを安定的に稼ぐスキル(マネー流動化スキル)の為に投資が必要であり、利用できるものは利用すればいい。

 

そもそも、そんな問題など関知しないとする、マネーそのものを認めない選択肢もあるかも知れない。

 

我々は、お金が便利だからという理由でここまで利用されてきたと、なぜか認知しているがそれが本当に便利なのかどうかは、誰もその確証は持ってい無いのでは無いか?

 

人の支配する社会は、ウソであっても多数と意識されれば本当になる不思議な世界であるが、その黒を白にするのに、マネーは一定数の成果を果たしている以上、マネーが生む現実が白であり、本来あったはずの可能性や新世界は、黒く塗りつぶされる毎日が、今日も展開されている。

 

だがそれを現実と認めてしまえない人が存在する限り、今の世の中が完全な白になることは無い。

 

それでも地球は回っている。

 

地球を回したくない人々は、金による神の世界を夢見たのかも知れないが、

 

それでも現実に、地球は回っているのである。

 

非現実なことをまくし立てているのは誰なのか、彼らは真実の目から睨まれ恐れながら生きている。

人間の論理思考の限界、トンデモ話に真実は隠れている?

都市伝説の話題が、再注目されている一番大きな意義は、今の科学や技術だけでは全体像が確かめられ無いと言う限界が見えてきたからであり、これからの時代非現実と切り捨てるのは、問題になるかもしれない。

 

都市伝説論者に誰もが一様に信じて良いものとは言わないが、思わぬことに気づかされたり、意外な発見が多いことにお気づきだろうか。

 

その情報が妄想なのか創造なのか、見極めは必要としても、今の都市伝説(昔から実は存在価値は変わっていないのだ)がどれだけ少い説明で大局的な事象を正確に捉えているか、結構関心さえ向けない人が多いのでは無いだろうか。

 

Youtubeを見れば多くの都市伝説が闊歩しているが、見捨てるには惜しいものもあることに、本来現実主義者の筆者も気づくことができたので共有しておこう。

 

その信憑性を探るヒントは、現実に起こった事実と符合する要素がどれ程沢山含んでいるかどうかで判断できるが、あくまで自分がどれだけ常識的な判断と非常識な見方を許容できるかにもよる。

 

また、数字ゲームのように巧妙に偶然の一致を計画に操作しているものもあるので注意は必要だが、一度まとまった時間が取れたら、現実を忘れイッキに見まくることを体験してもいいだろう。

 

見終わった後は直後、訳が判らない心理状態になるだろうが、一晩あけると以外に頭がスッキリして、寝覚めが良かったりする。

 

手軽に現実逃避できる面で、結構オススメであるが寝る前に実行して寝落ちするくらいが良いかもしれない。

 

さて、それを見慣れてくると奇妙な真実味を覚える話題が出てくるだろう。

 

実際には、その真実味が実生活に役立つことは無いだろうが、その思考回路は現実社会だけで生きていても、決して得られるものでは無いが、その発想がある時ふと役立ったりするから不思議だ。

 

おそらくこの不思議や偶然を体験することと、人が夢をなぜ見るのかという原因と、何か共通性とか関連性があるかもしれない、と思うことはある。

 

就寝する以前の体験や記憶を整理するために脳がリセットされる際に見るのが夢だと考えれば、寝る前に非現実的な事やとっぴな事などの普段と異なった意外性を咥えてあげることで、夢の整理の仕方がマンネリ化されないのではないか?

 

人が新しい発想や、発明を思いつくときに「夢にでてきた」という体験談を話す人は良く聞くが、そういった時にも煮詰まった思考が、脳回路の整理の際に意図しない偶然のリンクで、意図しない発想につながる……。

 

その材料は事前に意識化の中で、詰め込まれてはいるが、それらの結合が起きている段階でできない状態で、睡眠という脳の刺激によって神経が本能的に、理性とは異なった再結合をした結果ではないか。

 

夢はその結合や分離の経過の中でうけた刺激が、夢となってビジョン化していると考えれば、筆者には腑に落ちることが何度もあるのである。

 

論理思考を好む男性より、直観が冴え的確な答えを見つけやすい例でも、必ずしもすべてが論理思考が正しいとは限らず、得てして理論志向は保守的な発想に傾く原因にもなっている。

 

直観的な発想、または異質な知識を取り入れることで、意外と満タンになっていた頭の中は、いくらでも詰め込める状態になることは、理論的に説明できなくともおそらく正しいことは、いくらでもある。

 

トンデモ話は、結構理屈では理解できない謎や、不安を話題にしたものが多いことを思えば、素直に気になった話題は一度一から十まで確かめた方が良い。

 

その夜に何が起こるか、筆者は責任はとれないが、体験上多くの場合は新しい朝を迎えることがおおいことからも、是非お試しすることをお勧めする。

 

だれが話を逸らそうとも、否定しようとも、自分が気になることは納得のいくまで調べるのは、翌日を最も満足して過ごせる最良の方法だと信じている。

 

当たり前になるデータサイエンティストの資質

AIが幅を利かせる世の中で、企業は闇雲にデータサイエンティストの育成と需要を求めているが、そもそもデータサイエンティストのやっている事は、どれ程の価値があるのだろうか。

 

結論から言えば、直ぐに淘汰される職業であり、未来に生きる者全てがデータサイエンティストならざるを得ない社会になる以上、近未来の常識になるスキルと言えるだろう。

 

現状は、経済市場の大半を握る高齢者層のスキル不足で、AIと実社会の仲介役が必要な段階なので、一時的に職業として需要が一定数あるに過ぎず、これも何れインターフェイスの改善で、多くの恩恵を受けられる時代に間もなくなるために、限定と見るべき。

 

むしろ、関心を向けるならこのスキルを得るために、グラフや統計を見る習慣をつけた方が幸せになれるかもしれない。

 

特に我々日本人は、教育で金融や数字の基本的な扱い方を教えてこられなかったために、AIの導き出す判断を参照する唯一の手段であるグラフや、情報の見方を全く知らない事に気づいていない。

 

知らない事に対処できるわけも無く、正しい問題判断もできるわけもない、ただイタズラに言われた虚像に警戒し怯えるだけで、そんなままでこれからは生きてはいけない。

 

これからは悲観して自殺者が増加するち、やたら脅されるのはそのためで、今から数字に慣れておけば多くの数字恐怖症の者が、そんな悲劇からも避けられるということだ。

 

慣れる度合いは人それぞれで、慣れられる時間も様々だが、まだ余裕のあるうちに始めた方が良いに決まっている、苦手な諸氏は学生時代を思い返して、苦手だった分野を今から補完するようオススメしたい。

 

その学びの中で、特に抑えておきたいのは、数字は人間より自分を決して裏切らないと言う事実であり、そこが見えて来ると、イッキに学習モチベーションがあがること間違いなしである。

 

逆に人間不信に陥らない事を願うが、今youtubeで多くの基礎学習動画が沢山出ているから、世の中本当に有り難い時代であるが、これからはこうした質の高い無料情報のニーズが最も価値を生み、市場を形成する時代だ。

 

いつまでも、旧態依然の情報価値にこだわっていると、簡単に時代に置き去られてしまう、ここを誤解したままでは、これからの価値観を理解できずに、それこそロボットの様な人間になってしまいかねないから、緊張感を持って過ごして欲しい。

 


これからは人でしかできない事は、これまでとは違った解釈を求められる時代になっていく。

 

仕事とはすなわち創造する事であり、行動する必要がある無いに関係なく、コツコツと誰も踏み入れていない領域を見出していくこと、その積み重ねが結果として新しい市場を生み出し、個人の価値をつくることになる。

 

さあ、あなたも既に芸術家のひとりなのだ、少しでも多くのイマジネーションとビジョンを思い浮かべながら、想像の翼を広げるべきだろうw

 

もう少し真面目に答えれば、日々の生活や仕事でそれぞれの作業に、なぜその作業をしているかと言う根源を、常に意識しているかが判断基準になる。

 

ここを無意識にしたり無視しているなら、その作業は創造性に欠ける行為だと戒めるべきだろう、その習慣化が重要なのであって、地味だが効果てきめんである。

 

そのために基礎情報の数字恐怖症をいち早く克服し、その数字が示すその先の筋道を見えるように、沢山練習を繰り返すことが結果として自分の創造性を広げる早道だと信じている。

 

その創造性を持つことは、すなわちデータサイエンティストそのものであり、その先にある可能性を広大なネットワークを介して多くの離れた人と、共有する社会を構築すべきなのだ。

 

もう記憶することだけが人間の仕事では無くなっている時代、記憶しても使い方を知らないのは、もう時代遅れなのだから。

 

報道メディアとて逃れられない掟

新しい情報通信網の時代にあって、プロフェッショナルであってもアマチュアでも、情報の価値はよりシビアに判定される時代を意味する。

 

興味と説得力が最大の価値観になり、書く話す伝える事に長けて有利なはずのプロフェッショナルとて,、速報性や真実味においてアマチュアに出し抜かれても不思議では無い時代である。

 

これまでの報道では、プロしかその権限が無いかのような錯覚が、本来のプロの報道姿勢を歪めてしまったために、視聴・読者側の知る権利に寄り添う姿勢が、いつの間にかだまし操作する方向へプロのテクニックが応用されるケースが問題視されている。

 

報道メディアがITによって大容量高速化され、しかも誰でもそこそこのクオリティで情報発信できる時代において、それでも反省の無いままプロはあぐらを書き続けるのか。

 

現状、大手動きは何もなかったかのように取り繕いながら、一部から単に三面記事的なテキトーなゴシップ記事をでっち上げ報道する姿勢が、そろそろオールドメディアとして悪評につながる時期期もなっているようだ。

 

高齢者層の一部に、旧態依然の報道期間を一定数信奉。信頼している分、その視聴率に頼る報道づくりが後を断たないが、本来啓蒙してこそプロ報道マンではないのか?

 

情報の真実味や信頼度も、下手な大手より評価されるケースも増えている印象を持つことは無いだろうか?

 

むしろ能動的情報発信が生活習慣の一部とった今、正しい情報の選別に苦慮することも多くなった。

 

その解決には、発信者の実体験は信憑性を測るのに大きく役立つ、その意味でも情報発信に不慣れなまま情報の海に身を投げるのは自殺行為なのはご理解いただけるだろう。

 

様々な立場の人が、その立場に立って報道する行為は、より緊急時には有用であったり、表現はたどたどしくともプロのそれより説得力を感じるのはなぜなのか?

 

 

猛反省を促すと同時に、一般者の真実の探求と興味を高める良い機会として、積極的に情報発信者として参加してほしい。

 

情報発信の最大の問題は、批判する側に立って物事をネガティブに誘導してしまうのに加担する事と言うこと、この大きな罪を自覚している者が余りにも多すぎると言う点だ。

 

発信者・受信者そのどちらの立場にも当たり前に立てる時代なのだ、受け身のままその立場だけの無責任さにぬくぬくと生きられる時代でなく、突然情報加害者となることもあり得る時代。

 

それは子どもなら社会参加の窓口として、高齢者でも社会貢献や生きがいつながる糧に、年齢や性別職種に関係なく多種多様な情報を理解できる社会を、実現するためにも情報発信は自己表現やアウトプットの経験の場として、積極的に行動してほしいのだ。

 

 

”一生懸命”が評価された、日本の職場習慣の将来性

国内で、経済成長著しかったころには単に「身体一つで”やる気”だけ」持っていれば、即戦力になるし、これまで十分経済成長も見込まれてきたように、一生懸命がんばれば評価された日本の職場環境とは、正しかったのだろうか。

 

今でこそ、多くの人がその問いかけに首を傾げる人が増えているように、様々な偶然や意図的な狙いが功を奏して結果的に成功事例を生み出してこれたのは、むしろラッキーだったに違いない。

 

ただ誰もが、いまさら将来までこの幸運が続くと信じる者はほぼいないだろうし、市場のグローバル化が浸透する中で、努力の量よりシンプルな結果が要求されるドライな社会が、当たり前になるのは分かっていることだ。

 

しかし急には人の心構えは変わらないのか、そのおかげで新しい働き手には旧態依然の仕事観は継続され、その一方結果は否応なしに要求され、その狭間で宙ぶらりんのままブラックな職場環境が、悲鳴を上げている。

 

これからの新しい働き手には、もう子どもの頃から解っているのだ。

 

古い掟の中でしか働けない人の中で、不条理な要求を器用にかわしながら、新しい職場環境を気づかなければならない現実に。

 

新規参入企業はこの不条理を解決する必要は無い、もっともその不条理を受けるのは高額好待遇を期待して入った大企業の新人たちだ。

 

中小企業のそれは、そもそも大企業に比べたら弱い立場であるのは昔から変わらないので、入った時点で覚悟の上の話だが、個人志向化傾向の高い新人にとって、大企業のそれは拷問に近いに違いない。

 

中小企業の彼らにとって、待遇が良い分恵まれていると思うかもしれないが、考える以上に大企業の束縛と不条理は半端ない上に理不尽だ。

 

よって大企業の社風にもよるかもしれないが、多くは大企業病に冒され新人育成も型にはまった真新しさの無いものが多く、ロボット生産工場のようなものだ。

 

そう、日本の企業風土は海外のそれに比べて、個別の実力を評価せず利用するだけで、個人の才能を会社の評価に転用し、都合悪ければ塩付けにし無能化するような、縦社会特有の組織を作りたがる。

 

しかし、世の中はIT・ネットワーク優先の並列社会であり、むしろ縦社会構造は情報の不透明化の温床であるため、いま中国共産党が世界に叩かれるように歓迎されない。

 

今後も日本の職場環境は、高齢化社会で旧態依然の働き手が、会社の主要業務を押さえる状態は続き、新陳代謝は起きにくいが、世界はグローバル社会の時代に未だオールド〇〇が好まれる時代錯誤のまま、取り残されるのか?

 

今までの日本の産業構造では、生産業が主であったため得意とした技術継承は、とてもスムースにされてきた。

 

ところが、昨今技術面は自動化される世にあって、運営・企画・営業面の継承は門外不出だったり、個人ノウハウの意識が強いためか、継承がちぐはぐに見える。

 

技術肌の日本気質の濃い国内の職場環境は、いまだ個人能力の評価基準が貧しく、全体評価機運が強いために、ノウハウの個人間継承には懐疑的で過度な規制がまだまだ多い。

 

AIや自動化システムにノウハウを学ばせられるのは、多くは技術的なものであって高度な人間関係やコミュニケーションを駆使せざるを得ない業種には、人間の個人能力が欠かせない。

 

ただでさえ人材不足の時代に、個人的な経験やノウハウを企業が縛る慣習は、その将来性や拡張には、マイナスにしかならずむしろ生産性を下げることにつながる。

 

アフターコロナとか、ニューノーマルなどが叫ばれるようになったのは、大きく職場環境や生活パターンが変わらざるを得ない現実からで、半強制的に変わるあらゆる環境に慣れるには、日本は言うまでもなく時間がかかるだろう。

 

それを見越した企業の根本的改革が、その国の経済成長を大きく左右する事実を、日本の企業は旧態依然の意識のせいにしてはならないし、これまでの動かなかったツケに自腹を切るべきだろう。

 

もし、従来の意識から抜け出せない”歯車”でありたいのなら、せめて社内で経験者ほど新人の様に意識を改め、多くの本を読み、新しい社会の在り方を文字通り正しく理解して、今後のあるべき”歯車”として行動すべきなのだ。

 

過去にどれほどの成績を残してきたどうかにかかわらず、その評価は自身がするものでなく、周辺が評価し惜しむものである、それが居座る理由にはならないし、自分こそ被害者だと居直る者も、被害に加担する側になる前に後退したほうが良い。

 

継承の意志も無く、その改革意識すら無い者は、今入りたてでいわれのない覚悟を背負わされている新人のほうが過酷なのだから、ベテランが覚悟できていない時点で年功序列に踊らされた自分に気づくべきだろう。

宮城県に現れた気球、今さらアナログなテクノロジーは何を語るか

もう日が経って久しくなったが、宮城県上空に突然現れ滞空し続けた”謎の気球”の正体について、そろそろ忘れ去られそうなので敢えて蒸し返すが、正体が調べていまだ不明なのか、単に不明のままで終わらせたいのか謎である。 

 

 気になった筆者は関連ニュースを追っているが、仮説としてはだれが考えても二つで、一つは平和利用でもう一つは軍事目的、正体はそのどちらなのか?

 

テレ東の記事にアフリカケニアの疑似ケースが載っていたが、この線が最も無難な正体の一例だろう。

 

www.tv-tokyo.co.jp

「謎」の飛行物体がケニアに その正体は・・・|テレ東NEWS:テレビ東京

 

もう一方で、もう少し専門的な予測が下記の記事だが、ドイツの研究機関がアメリカと共同開発中の、高性能な通信ステーションではないかという、かなり具体的な相似例だ。 

 

 

asagei.biz

宮城県が「UFO」に認定!謎の「白い飛行物体」はドイツから飛んできた!? | Asagei Biz-アサ芸ビズ

成層圏プラットフォーム』だとする説です。通信や放送用の飛行船や飛行機のことですね。推進エネルギー源は太陽電池で、無人で1年以上の継続飛行が可能。アンテナ中継基地ですので、当然、定点滞空技術が搭載されています。実はかつて日本でも開発が進められていたのですが、諸事情で開発が頓挫した経緯があります。

 
ソース元が都市伝説系編集者とあるので、うさん臭く感じる諸氏も居るかもしれないが、この高性能な自立型移動体は十分現実的で、かつて日本が太平洋戦争末期にアメリカ急襲用に開発していた”気球爆弾”の応用の可能性は十分ある。

 

当時でもこの気球は軍事機密で、実際に飛ばされ季節風を利用しアメリカに届いているし、墜落していた気球に偶然接触した家族の被弾も記事が現地新聞に掲載されている。

 

ただ世はすでに終戦を迎え、最新型ジェット戦闘機が主力の時期であり、旧態依然の気球兵器が進化す機会は失せていた。

 

しかし、気球は仕組みは単純でも、地球の高度上空には大規模な東向きの大気の流れが存在しており、日本でも毎年春頃中国から訪れる”黄砂”もその原理の結果である。

 

日本に突然現れた気球の様な物体が、自立・移動機能を有した”半衛星”であっても不思議ではなく、意外に旧態依然の気球とは高コスパで国境や海を超えられる”今でも使える優秀な移動体”である事実はある。

 

この事実で我々が懸念すべきは、気球は移動に時間を有するため、飛ばした国や組織の特定や発進地点の特定がさかのぼって追跡できない点と、この気球においてはその後の追跡結果について見逃されている点である。

 

それぞれの問題は、前者では気球によって運ばれる物体は何でもアリであり、観光利用の客席から軍事利用の核弾頭まで運搬は可能であり、後者では不慮で見失ったのか意図的にそういうことにしたのかの点で、政府が不透明にしている点だ。

 

最悪のシナリオは、おそらく容易に想像つくだろうが、西側又は北の隣国から考えられる脅威であり、その匿名性からみればどこぞの無名組織のレジスタンスも十分可能だと言うことだ。

 

後日談として、戦後間際に飛ばされた気球爆弾のその後については、いくつかアメリカのジャーナリストや政府機関によって、その技術の応用の行方を調査されている。

 

その一つには、戦後アメリカで大きな話題となって、今でも日本でも都市伝説化されるUFOの墜落事件の原型が、気球技術継承によって米軍が進めていた某軍事技術のための人体実験の隠蔽ではなかったか、という民間レポートがある。

 

それはさておき、気球にまつわるエピソードは、ヒンデンブルグ号の悲劇にとどまることなく、今でも技術継承されながら現役のテクノロジーであり、我々に核兵器以上に幅広い脅威と可能性を持った見捨てられない現実だということだ。

 

その脅威や懸念の現況は、AIのシンギュラリティへのそれと全く同じであり、結局どのような優れたテクノロジーも、それを使う人間の本性次第だという、人間の存在証明にまで行きつくのである。

 

さあ最後に考えてみよう、この日本に現れた飛行体とは何なのだろう?

 

近く実現するであろう近未来を見据えた、世界規模の通信インフラ実現のどこかが始めた事象実験だったのだろうか、過去の例に沿う様にUFOが当時のアメリカ政府の横暴を暴くきっかけになった、今まさに隠されようとしている闇に光を当てようと現れたのだろうか。

 

申し訳ない、真実は永遠に闇かもしれないがただハッキリ言えるのは、そのどちらの未来に転ぶかは私たちの今後の行動次第であり、誰もが避けて通れない真実だということなのだ。